エリート上司の甘い誘惑
追って来る足音を確かめる余裕もなかった。
自分の部屋の前に着いてようやく後ろを気にしながら、鍵を探した。
こんな時に限って、定位置の内ポケットに入ってなくて、焦ってがさがさと鞄中かき混ぜる。
ついさっきまで可愛い後輩だと思っていた彼が、今はもう男性としか思えない。
そんな彼に、女として扱われた。
それをまだ、腹が立つとも嬉しいとも感じる余裕もない。
「あった」
指先に、慣れた感触が触れてそれだけでなぜかほっとした。
急いで玄関を開け、あんなに帰りたくないと思っていた自分のテリトリーの中に入った途端、足の力が抜けた。
へなへなとその場に座り込みかけて、土間の冷たさに気づき這いずるようにどうにか靴を脱ぎ部屋に上がる。
真っ暗だ。
電気をつけなくちゃ、と思うのだが、まだ力が入らない。
「……キス、した」
キスしやがった、あのクソガキ。
グーパンくらいは仕方ない。うん、仕方ない。
敢えて悪態をついて自分を納得させようとしたけど、身体も顔も熱い理由が怒りだけじゃないことは誤魔化せなかった。
だけど、怒りだと自分に言い聞かせた方が、気が楽だ。
だって、明日からどんな顔して仕事に行けばいいのか、わからない。
まだ触れているような、変に敏感になった唇に手をやると、しっとりと濡れていた。
……消えちゃう、と思った。
終わった恋の置き土産のような、置き去りにされた自分の恋心だけじゃなく、腕時計の彼とのキスが消えてしまうような気がして。
「消えちゃうじゃん……馬鹿」
あのキスの感触が、手がかりになるなんて思ってはいないけど。
消えて欲しくないと思うほどに、私はやっぱりもう一度会いたいのだ。