待ち人来たらずは恋のきざし
・プロローグ


ふぅ。…ここにして見ようかな。

ドアの取っ手に手を掛けゆっくり引いた。
恐る恐る足を踏み入れて見る。

「いらっしゃいませ」

…はっ。

「あっ。あの〜、…今晩は」

そんなに広くは無いみたい…。
カウンターの方へゆっくり歩み寄ると更に声を掛けられた。

「どうぞ?ようこそ、いらっしゃいませ」

あ、何となく、ここならいいかも…。

穏やかな笑顔で男性が迎えてくれた。

流してある黒髪は、サイドは短く、ワックスで綺麗に整えられていた。

…この笑顔、どこかで会ったような気もするけど。
気のせいね、だって初めて来たんだし。
どこかでお会いしましたか、なんてうっかり口に出してしまったら、それこそ誘っているのかと思われてしまう。
…いけない。何か注文するには、どうしたらいいんだろう。

「あ、あの、私、初めてなんです、一人なんです、…大丈夫でしょうか?」

「はい、勿論大丈夫ですよ。
では…こちらの御席にどうぞ」

「…はぁ。すみません有難うございます。あの…」

「はい」

空いていたので隣のスツールにバッグを置き腰掛けた。

「実は、お酒、強くないんです…そんな私でも大丈夫なくらいの物、何か作って頂くことは可能でしょうか?」

「勿論大丈夫です。では“お任せ”で宜しいでしょうか?」

「はい、是非それでお願いします」

「はい、…畏まりました」

ほっ、取り敢えず良かった。

座ったのはカウンターの奥の席。

ふぅ、ドキドキする。
でもここに入って良かったかも。

…静かだし、マスターも落ち着いた年齢の人だし。…フフ。

物珍しくて、つい天井を仰いだり首を動かして色々見ていた。


「どうぞ?」

「あ、…有難うございます」

…いけない。あまりキョロキョロしていては。
恥ずかしい。

ロンググラスのカクテルが目の前にソッと置かれた。
螺旋状に入っているのはオレンジ?の皮かな…全然解らない。

「怪しい物を飲ませていると思われてもいけませんので、簡単にご説明しますね。
まず…、見た目はカクテル、実はノンアルコールの物です。
シャーリーテンプル、と言います。
これはサービスにしておきます、…どうぞ。
ご来店して頂いたお礼とでも言っておきましょうか。
二杯目をご注文頂いた時に、アルコール低めで何かお作りしましょうね」

柔らかく微笑むと現れる少しの目尻のしわ。
渋くて素敵なマスター…。
あぁ、こんな人、いいなぁ。…10歳くらい年上かな。
場所が場所だけに二割増しくらい素敵に見えているのかも知れないけど。

職業上だとしても、優しい配慮も嬉しい。

「あ…、有難うございます」

「お伺いしてもよろしいですか?」

「あ、…は、はい、どうぞ」

プライベート過ぎて、どうも緊張して吃ってしまう。
仕事だと思えばハキハキ喋れるのかも知れないけど…そう上手く切り替えて作る事は出来ない。

あ、甘くて…これはジンジャーエールね。丁度口を付けたところでもあった。

「タイミングが悪かったですね、大丈夫でしょうか…。
今夜は、お一人と言われましたが、何故、当店に?」

あー、それは…。

「ごめんなさい、お店は全くの偶然なんです。
…とにかくこういった所は初めてで。何もかも良く解らなくて。
覗いて見て、圧倒されなければ入れるかなって感じのお店を探していて、それでなんです。
こちらは静かそうで、雰囲気が落ち着いたお店だったので、…すみません」

「いいえ、何も謝られる事ではございません。
そうでしたか…なるほど。
今回のお客様のご希望に当店が添っていた、という事で…有難うございます」

カウンターの上で両手をバイバイするみたいに振って慌てて言葉を返した。

「そんな…お礼なんてとんでもない。
私の方こそ、お酒が駄目なのに来たりして。

今日はちょっと…無理をしてでも入って見ようと思ったんです。

今日で36歳の終わり…、明日から37になってしまうから」

「お誕生日?」

グラスを拭きながら言葉が返って来た。

「はい。今までした事が無い事…、つまり、違う事をしてみたら、何か変われるのかもって。
曖昧でよく解らないですよね、こんな事を言っても」

「いいえ、そんな事はありませんよ。
まずは、お誕生日、おめでとうございます。

変わりたいの?」

あ…、変わりたいの、なんて。
何だか急に、年上の経験豊富なお兄さんに聞かれてる感じ。

「んー、上手く言えません、ただ何となく、変化が欲しい感じです」

…何も無いから。

「…そう。
では、私からお祝いに、軽いのをお作りしましょう。
少しでも良い変化がある事を祈って。ね?」

「え?はい、え?いいんでしょうか…すみません、有難うございます」

「クスッ。いいえ」

こんな会話をしてくれるなんて…ちょっと嬉しい。ううん、かなり嬉しい。

マスターから、お祝いです奢りますと言われ、ここは遠慮無くご馳走になる事にした。

嬉しくもあり、慣れない事にドキドキもあり、恐縮して頂いた。

この行為だけでも、私にとっは今までに無かったモノ。

思い切って入って見て良かったかも…何だか嬉しい一時を過ごせそう。

「頂きます」

「はい、どうぞ」



「ふぅ、今晩は」

「…いらっしゃい、いつもの?」

「うん、お願いします」

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