待ち人来たらずは恋のきざし


「あ、ここです。
有難うございました」

「ん、おやすみ。休みは心を休めろよ」

「はい、おやすみなさい」

…何言ってるのよ。貴方は今、悩ませる事を言ってる張本人なのよ。
解ってる。気遣ってくれたのは仕事の辛さの事は忘れろって意味でしょうけどね。


こんな別れ方、何の話がしたかったか解らなくなったままじゃないか。

要は、考えて見てくれという事なんだが。

浅黄が階段を上がっている。

あぁ、部屋が何階か知らないが閉所恐怖症だもんな。

…。

姿が見えなくなりかけていた浅黄を追い掛けた。


「浅、黄…」


「よう、お帰り、景衣。お疲れ」

くっ。…居るじゃないか。浅黄の帰りを待っていたのか。

あっと小さく声をあげ、驚いた様子の浅黄に男が駆け寄り抱きしめた。

まるで俺のモノだと言わんばかりにだ。
男が浅黄の肩越しに俺を見ている。
当然浅黄から俺は見えていない。

俺は、男に抱きしめられた浅黄を目の当たりにしている。

「ぁ…貴方、どうして?」

「遅くなるって言うから待ってた。はぁ、本当に遅かったな」

「…あ、居るとは思わなかった。…寒いのに。
こんなに服が冷えてる。随分待ったの?」

「大丈夫だ。こうすると景衣はあったかいよ」

「…もう、苦し、い」

いつまでこんな…見たくも無い、聞きたくも無いモノを見てなくちゃいけないんだ。…帰る。

踵を返した。

「あ、どなたか知りませんが、送って頂き有難うございました」

「え?」

浅黄が振り返った。

「課、長…あ、どうして…」

「課長さんでしたか、遅くなったからわざわざ送ってくれたのですね。
有難うございました」

「いえ。…帰り道が同じ方向だからで。では、私はこれで」

…初対面の振りか。なら、これでいいだろう。

「有難うございました、おやすみなさい」

「…おやすみなさい」

憮然とした気分で階段を下りた。

浅黄と話せなかった。


「…創一朗さん」

「景衣、今のはどっちの名を呟いたんだ?」

「貴方よ、貴方に決まってる」

「景衣…ん、…寒〜…ん。

中に入れてくれ。
…景衣の唇も冷たいな。
早く〜、中に入れてくれ」

…。

「部屋の事…よ、ね?」

「ん?当たり前だろ。
他に何が、…あ」

「あー、さぁ開けました、部、屋、に、どうぞ」

「景衣、何?今日は発情する日なのか?
変な風に聞こえたのか?」

「もう、…いいから早く入って」

「言われなくても入ります」


「ねえ、どうして?」

「何が?」

「今日、居たの?」

…こんな日、居るだろ普通。

「大丈夫だったのに。心配ないって言っておいたのに」

「そんなの全然大丈夫じゃないから。
今の、そうなんだろ?」

「え、あ、うん、そうだけど」

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