不思議な眼鏡くん
心臓の音が、鼓膜に響いてる。
お酒を飲んでるせいか、それとも別の何かか。

咲はバッグを胸に抱くと、大きく一つ息を吸った。
バスルームからシャワーの音がし始める。

「何してるの、わたし」
つぶやいた。

『ずっと、このまま? 気を張って、男を寄せ付けず、強いふりをして、生きて行くの?』

この年齢まで、誰とも経験していないということが、重荷だった。気にしないようにしても、仕事に熱中しても、やはりコンプレックスには違いない。

今夜、捨てられるかもしれない。この重荷を。

きっと酔っているせいだ。会社の後輩に誘われるまま、ほいほいこんなところにまで付いてきて、明日からの仕事と自分の立場を考えると、無謀としかいえないのに。

「ありえない、な」
ぼんやりしていた咲の頭が、だんだんとクリアになってきた。

周りを見回す。

田中くんと、そういうことをする?

「ないっ!」
咲は叫んだ。

「わたしは彼の先輩で上司だって。まったく、ちょっと誘われたくらいで、こんなところにきちゃって。わたしってほんと、バカすぎる」

咲はくるっと振り向くと、ドアを引っ張った。

開かない。

鍵がかかってる? いつのまに……。

咲は鍵を外すと、勢い良く引っ張った。

がちゃんという音と、引っかかる手応え。

「え?」
よく見ると、さっき外したはずの鍵がまたかかってる。

「何これ。どういうこと?」
咲は何度もトライしたが、すぐに鍵がかかってしまう。

シャワールームからの音が消えた。

咲は焦る。

田中くんが出てきちゃう! そうだ! フロントに電話っ。
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