小倉ひとつ。
時計と引き戸を何往復見た後か、からりと音がした。


「いらっしゃいませ」


自分の声が弾んでいるのが分かる。


「おはようございます、立花さん」

「おはようございます、瀧川さん」


後ろ手に扉を閉めた要さんが、優しく笑った。


稲やさんでは顔に出ないように、今まで通りの対応を心がけると決めている。


お仕事中に呼び名を崩すのはためらわれて、ひとまず瀧川さんと呼んでみたのだけれど、いつか間違えそうで怖い。気をつけないと。


「今日は小倉をひとつ、持ち帰りでお願いします」

「承りました」


決め打ちしていたらしい注文は、迷いがなくて短い。


書き留めに記入してもらって、瀧川さん、小倉ひとつ十三時にお持ち帰りだそうです、と報告をして、一緒にお庭に出た。


目が合うと微笑み返してくれるけれど、世間話は少ない。今日はまだ、おはようございますと注文しか聞いていない。


名残惜しく門扉を開ける。


「行ってらっしゃいませ」

「ありがとうございます。行ってきます」


敬語が寂しかった。言葉数の少なさが寂しかった。


きつく唇を結んでから、なんとか口を開く。


「……あの、要さん」

「うん?」


困り顔をされたら瀧川さんって呼び直そうと思っての呼び名に、要さんはあっさり頷いた。

よかった、お店の外……というか、ここもお店ではあるけれど、店内じゃなくてお庭なら大丈夫らしい。


「お仕事頑張ってね」


邪魔にならない範囲で選んだ言葉に、まなじりが優しくほどける。


「ありがとう。かおりも頑張ってね」

「うん、ありがとう」


じゃあ、また後で、と名残惜しく見送った。


門扉は春らしく柔らかにあたたかく、木々は緩やかな風に揺れていた。
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