旦那様と契約結婚!?~イケメン御曹司に拾われました~
『ドケルバン病ですね。しばらく手は安静にして、注射で様子を見ましょう。それでもよくならないようなら手術という手もありますが……ゆっくり、見ていきましょうか』
それは手を酷使することで起こる、決して珍しくはない、ひどい腱鞘炎。
幸い注射などの治療で痛みは引き、症状自体はすぐ良くなった。
けれど、手がよくなっても俺はピアノの前に座ることも、ピアノに触れることも出来なくなった。
鍵盤の音ひとつを聴くだけで、あの日の、全員の視線が期待から失望に変わる感覚を思い出す。
世界が、暗くなるのを感じた。
なんのために生きてきたのか、なんのために生きていくのか。
過去も未来も全てを失った俺は、気がおかしくなったように荒れて、部屋中の物を投げ捨て、床に叩きつけた。
CDは割り、楽譜は破き……ピアノを殴ろうと振り上げた手は、振り下ろすことができなかった。
込み上げたのは、幼い頃、このピアノを弾いていた時の楽しかった気持ち。
悲しいのに、苦しいのに、全てなかったことにしてしまいたいのに。
それでもこのピアノを、大切だと思えるなんて。
大切に思う気持ちに反して、動かないこの手が余計憎くて、ピアノにすがるようにして泣いた。
泣いて、叫んで、一晩を過ごして、それから1年ほど俺を襲ったのは、深い深い絶望。
段々と痩せ、生きる気力もなくしかけた俺に、母は泣いた。