あなたに捧げる不機嫌な口付け
「くそ……!」


祐里恵が嫌うから、と気をつけていた言葉が荒れる。


ああそうだ、祐里恵はお前なんて気安く呼ばせてくれなかった。


祐里恵の基準ではより他人行儀な名前呼びを突きつけた。


『そんな偉そうに呼ばれるくらいなら、名前で呼ばれた方がまだまし』


だけどそれは、祐里恵という名前が彼女の中で大事なものではないからだ。

祐里恵は自分の名前にあまり愛着がないらしかった。


だからだろうか、祐里恵は俺の名前もなかなか呼んでくれなかった。


ねえ、で済ませて。

もしくは主語を省略して。


『いちいち名前を呼ぶ必要がどこにあるの』


――俺が呼んで欲しかった。


ねえより、あなたより、諏訪さんより。

恭介さんって、俺が呼んで欲しかった。


『私、愛されてるとか好かれてるとか自惚れてはいないよ』


自惚れて欲しかった。

嘘じゃないって、好きだって分かって欲しかった。


すがるものを探す体が、滑りのいい髪をまだ覚えていていじましい。


苛立たしく両手を握り込む。


背中にさらりと流れる黒髪も。

同じ色をした、物憂げな、けれど真っ直ぐにこちらを見据える瞳も。

控えめな悪態も、

回転の速い思考も、

鋭いようでいてその実優しい言葉も、

細い指先を引き寄せて抱き締めた、華奢な体の低い体温も。


祐里恵に関すること全てを覚えているのに。
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