冷淡なる薔薇の王子と甘美な誘惑
 ――私が余計なことを口にしなければ……


 聞かれたからにはいつかは答えなければいけないと、ディオンに話す言い訳を考えながら、以前のように午後の時間は王宮内の掃除に徹する。
 数日前までフィリーナがいた場所には、今頃メリーがいるはずだ。
 まだ過去にできない砕けた想いの欠片が喉につかえて、苦しくなる。
 脚の先で、埃を掃っていたほうきがじわりと滲んだ。

「娘」

 にわかに聞こえた低く威厳のある声。
 広い中庭を臨む回廊で掃き掃除をしているのはフィリーナ一人。
 呼びかけられたのは小娘である自分で間違いはなさそうだと顔を上げると、浅黒い健康的な顔が澄ました表情で、いつの間にかすぐそばに立っていた。

「ダウリス様」
「娘。すまないが、これを司教に届けてくれないか。礼拝堂の裏にいるはずだ」

 ダウリスは、鉢に植えられた細い苗木をフィリーナに差し出す。

「わたしはこれより、早急に書簡を送らねばならない。悪いが頼んだぞ」
「は、はい、かしこまりました」

 ディオン王太子の側近である彼は、念を込めて重大な仕事でも指示するように言う。
 けれど、心なしか薄く笑んでいるように見えるのは、彼が元々持っている温厚な雰囲気のおかげか。
 腰元で、ジャリ、と重みのある刀剣を擦らせて、姿勢よく去って行く背中をフィリーナは頼られた責任感に背筋を伸ばして見送った。



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