黒き魔物にくちづけを

「……えれぬー……」

難しい顔(カラスの表情は豊かとは言えないのだが)をしたビルドが、何かを言いかける。けれどもそれを遮るように、何かが崩れるような物音が隣の部屋から聞こえてきた。

ぱっと口を閉ざしたビルドと、エレノアは顔を見合わせる。音の原因は、その部屋で寝ているはずのラザレス以外に考えられなかった。

すぐさま立ち上がった彼女は、つかつかと部屋を横切って隣の部屋を開ける。そして、その光景に目を見張った。

「……ラザレス……!?」

手当てを終えたあと、確かにラザレスは静かに眠っていたはず。しかし今目の前にいるのは、黒い翼を翻しながら獣への変容を遂げている最中のその人の姿だった。

「何やってるの、動いたら傷口が開くじゃない……!」

驚いたエレノアが声をかけるも彼からの返答はなく、むしろ煩いというように黒い翼が辺りを薙ぐ。その攻撃的な動きに、彼女ははっとした。

嗚呼、彼は今──【悪夢】の中にいるのだ。

「ラザレス……!」

彼女は彼の名前を呼ぶと、そのまま怯むことなく翼に立ち向かって行った。動ける状態じゃないはずの彼を、一刻も早く止めなければ。また自我を無くしているであろう彼に対して、しかし恐怖心は無かった。

悪夢にとらわれている時の翼の動きは、荒々しいものの直線的だ。何度もこうして悪夢から彼を掬いあげた彼女は、翼撃の切れ間を読んではじめの頃より素早く彼のそばに到達した。

「ラザレス、目を覚まして……!」

彼女は名前を呼びながら、ラザレスの手を掴んで握りしめる。その燃えるような熱さに、思わず戦慄いた。

けれどそれも一瞬のことで、すぐにエレノアは激しく暴れる彼に必死にしがみつくことになる。

彼女が掴んだ腕が、鬱陶しいというように乱暴に振るわれる。振り払われて飛ばされそうになって、思わず彼女はたたらを踏んだ。

もう一度身体に触れると、なおもラザレスは逃れるようにもがいた。その眉根は苦しげに歪められていて、そばに居るのが誰なのかも分かっていないようだった。──そうして逃げるように動く度、また傷口に痛みが走って、苦しむのは彼自身なのに。
< 224 / 239 >

この作品をシェア

pagetop