黒き魔物にくちづけを
(何だったのかしら、あの夢)
ゆっくりと上体を起こした彼女は、窓から差し込む月明かりに目を細めながら、今しがた見た夢を振り返る。
妙な夢だった。あの、昔の自分らしき少女を【姉さん】と呼んだ少年は、誰なのだろう。
(黒い髪に、銀の瞳──ううん、まさかね)
同じ色合いを持つ同居人の顔を思い出して、けれどそれはないかと首を振る。相手は魔物なのだ。
(考えても仕方ないわね。どうせ夢の中の私の妄想だわ。直前に見た人の顔に引きずられているだけよ)
夢の残滓を追い出すようにかぶりをふったエレノアは、ゆっくりとベッドから出る。すっかり眠気は覚めてしまったし、このまま眠る気にはなれなかった。
(確かこの辺に……あった)
わずかな月明かりを頼りに、手探りで外へ出るためのガウンを取り出す。昼間、衣装箪笥をあさって使えそうなものをいくつか出しておいたものだ。エレノアが今着ている夜着もそこから拝借したものである。
ガウンを羽織った彼女は、水でも飲みに行こう、と、部屋の扉を静かに開けた。
井戸は庭にあった。これも、昼間魔物が案内してくれたところである。屋敷から出るまでは、暗い廊下で少々苦労したけれど、庭に出てしまえば月が明るいおかげでそう苦労しなかった。
(夜ってこんなに明るいのね)
水を汲み上げながら、彼女はそんなことを思う。一人で暮らしていた彼女は、今まで夜に外に出たことなんて無かった。それは、黒い瞳をもつ彼女なりの自衛のようなもので。
耳を澄ますと、風の音や虫や梟の鳴き声が聞こえてきた。完全な静寂ではないということに、かえって安心する。
「……つめたっ」
汲み上げた水を両手で掬いながら、思わず声を漏らす。夜の空気に冷やされた地下水は氷のように冷たくて、気持ちがよかった。汲み上げるのは右肩に響いて少し大変だったけれど、よしとしよう。
寝る前に確認したのだが、右肩はやはり腫れ上がっていた。明日あたりには青くなっているかもしれない。それでもまあ、打ち身なら放っておけば治ると身をもって知っているので、それほど大事だとは思っていないのだけど。