竜の妃は、今宵も鬼の夢を見る
第1章 天回廊之事始(てんかいろうのことはじめ)
「……深手を負いつつも犀狼(さいろう)は、一刀の下、瞳邪鬼・朱藍(どうじゃき・しゅらん)を切り捨てた。一眼に暁、一眼に宵を映した双眸は閉じられた。人心を惑わし、竜帝にまで上り詰めた鬼の、これが最期である。瞳邪鬼を滅せし犀狼は新竜帝と成り、九楼国は再び平安を享受することとなった。星暦(せいれき)255年のこと也――」


 古びた頁を、白い指が繰る。深い翡翠のような瞳が、古くに記された文字を追い、小夜啼鳥(ナイチンゲール)のような美しい声が、その厳めしい言葉を難なく読み上げる。

 細い首が小さくかしげられ、さらり、緑の黒髪が肩を滑った。形のいい顎が夜空を仰ぐように上向く。

 英傑竜帝・犀狼が瞳邪鬼・朱藍を斬った、あのいにしえの夜のように、今宵の空には月がない。細かな格子越しに見えるのは、宝玉を砕き散らしたような数多の星だけだ。


 ここは、そんな数々の歴史の舞台ともなった天竜殿の西方に位置する後宮。そして、夜も明るいこの居室で古書をひもとくのは、竜帝の妃となる娘、竜妃。物心もつかぬころからこの後宮で育てられ、年頃になった十四、五の娘である。

 あまりにも幼いころに引き離されたため、彼女は両親の顔を知らなかった。また、この後宮から出ることも禁じられていたため、外の世界も知らなかった。


 知っているのはただ一人、しっとりとした輝きを放つ白壁にかけられた肖像画から微笑む男性、未来の夫である竜帝・紹信その人だけであった。ただ、その紹信も、先代竜帝が亡くなった二年前から喪に服したまま、竜妃との婚儀も遅れに遅れているのだったが――。


(一眼に暁、一眼に宵を映した双眸……)


 ほう、と竜妃は息をつき、古書を静かに閉じた。高い天井に吊された、天灯(ランプ)の光が瞳にまぶしい。けれど、この昼間のようなその光のおかげで書を開くことができ、夜の退屈しのぎができるのだ。


 竜妃の暮らすこの後宮は、部屋数だけでも十以上、それらをつなぐ回廊沿いに、小川の流れる中庭が二つも配置された豪奢なものだった。

 彼女は昼の間、そこを散歩したり、部屋で絵筆を取ってみたり、琴をつま弾いてみたりしながら、紹信の声がかかる時を待っている。

 二年前までは、天竜殿へ召されることも多く、ときには紹信と二人きりで会話をする機会もあったのだが、いまはまったく音沙汰がない。かといって、招かれないまま、竜妃のほうから天竜殿へ赴けるものではない。


(そういえば、先代竜帝さまが亡くなってから、宝物殿へも行っていないわ)


 肖像画の竜帝を見つめ、竜妃はふと思った。

 宝物殿は、文字通りこの九楼国の宝を収めている場所であるが、彼女の目当ては宝ではなく、そこにかけられた歴代竜帝の肖像画だった。


 かつては九つの国に分かれていたこの九楼国をまとめた、初代竜帝・炎縹から、瞳邪鬼を倒した第十一代、英傑竜帝・犀狼、それから彼女はまだ目にしていないが、亡くなった先代竜帝の肖像画も、その堂々たる歴史に加わったはずである。

 その初代から今上竜帝の肖像画を眺めることが、竜妃はことのほか好きだった。


 なぜなら、代々黒真珠のような勇ましい両眼を持つ歴代竜帝たちの肖像に囲まれていると、自らもその歴史の中に組み込まれていくことの誇りを、身体一杯に感じることができる。そして、竜帝のためだけに生きることの素晴らしさを感じられるからであった。

 けれど、今上竜帝の時代になり、ついにそのときがやってくると思ったにもかかわらず、竜妃との婚儀が行われる気配はみじんも感じられなかった。


(きっと先代竜帝さまが突然お亡くなりになったから、忙しくいらっしゃるのね)


 いつもと同じ台詞で自らを慰めながら、竜妃はうつむいた。

 もし彼女が九楼国ではなく、他国の妃であったのなら、竜帝の心変わりを疑うところだったのかも知れない。しかし、竜妃は一度たりとも竜帝を疑うことはなかった。

 というのも、この広い後宮で暮らす妃は、竜妃ただ一人だけであった。そして、その事実ははっきりと、彼女が竜帝に選ばれたただ一人の妃であることを証明している。


 それゆえ、彼女のこの「竜妃」という名も、「竜帝の妃」というだけの意味であって、彼女の名と呼べるものではなかった。生みの両親のつけた本当の名というものもあったのだろうが、彼女はその名を知らない。

 彼女は、ただ竜妃だった。九楼国における、ただ一人の竜妃だったのだ。


 物言わぬ肖像に彼女は小さなため息をつくと、一度は閉じた書を再び開いた。でたらめに開いたというのに、頁は先ほど読み上げた箇所と同じ、瞳邪鬼・朱藍の章が開かれた。


(暁と宵の色を映した双眸……)


 竜妃は想像に任せて、その姿を思い浮かべた。

 初代竜帝・炎縹の時代から、いまに数えて十四代、竜帝の血統は父から子へ、子からその子へと、正しく受け継がれてきた。しかし、その血統が一時、乱された時代があった。それが、瞳邪鬼・朱藍の政変である。

 その一眼に暁の色、もう一眼に宵の色を映した瞳邪鬼の双眸は、人心を惑わす瞳術を操る魔の双眸であった。


 鬼はその瞳術を使い、天竜殿の人々を惑わすと、あろうことか竜帝の座につき、悪政の限りを尽くした。しかし、その瞳術を破った血統正しき竜帝・犀狼が瞳邪鬼を討ち、九楼国に平和が戻ったのである。

 その功績から、犀狼は英傑竜帝と呼ばれ、後世に名を残した。しかし、瞳邪鬼・朱藍が九楼国に残した爪痕はひどいものだった。


 朱藍の悪政により、国は荒れたのはもちろんのこと、彼は竜帝の印を今際(いまわ)の際に砕いてしまったのだ。

 それは九楼国に代々伝わる、二対の玉爾であった。

 玉爾とは、書簡に記す竜帝の印であり、その権威を証明する、国の命とも言えるものである。

 しかし、朱藍がそれを砕いてしまったため、現在に伝わる九楼国の玉爾は犀狼帝の時代に新たに作り直されたものであった。同時に、鬼の血にまみれた天回廊も、新しく板が張り替えられたという話ではあったが――。


(……こんな新月の夜に、読むようなお話ではなかったかも)


 恐ろしい鬼としぶきを上げる血の想像に、竜妃は少し後悔をして、壁の肖像画に目を移した。


「竜帝さまのお側でしたら、何も怖くないと、そう申しましたけれど……絵の竜帝さまでは、わたしを助けては下さいませんものね」


 竜妃は壁の竜帝に向かって小さくつぶやいた。しかし、相手はただの絵だ。答えが返ってくるわけもない。

 しかし、それを知りながらも、最近では竜帝の絵に話しかけることも多くなった。


 なにせ、竜妃が言葉を交わすことのできる相手は、竜帝だけなのだ。後宮にたくさんの侍女がいても、彼女たちは必要最低限の会話しか交わそうとしない。

 竜帝以外の唯一の相手と言えば、書の手ほどきをしてくれていた師の胡凋(こちょう)だけだったが、その彼も一年前に若くして亡くなってしまった。

 女人のような雰囲気をまとったその人は、若年ながら天竜殿付きの易者であった。しかし、天才の命は短いものと相場は決まっているらしい。

 その訃報を聞いたときも、彼女は竜帝の肖像に話しかけることで、何とか心を保ったのであった。


「けれど、竜帝さまにも二年もお目にかかっていないのですもの。お目にもかかれない、お声も聞けないとあっては、わたし、竜帝さまのことを忘れてしまいます」


 拗ねたようにそう言って、彼を見上げる。しかし、やはり肖像画は黙って微笑んでいるだけだ。竜妃は悲しく瞳をそらした。


「……竜帝さまは、わたしとのお約束を覚えていらっしゃいますか。天竜殿のお庭に、人知れず月季花(バラ)の咲く場所があるのだと、わたしをその秘密の場所に案内して下さるのだと、そうおっしゃったではありませんか。わたしは、その日を心待ちにしておりますのに」


 そうつぶやいて、竜妃はふと口をつぐんだ。静かだった戸の向こうから衣擦れの音が聞こえ、しばらくのち、竜妃さま、呼びかける声がした。


「なあに?」

「そろそろお休みになるのでしたら、お着替えをお手伝いいたしましょうか」


 そっと振り返ると、開かれた戸の向こうで、侍女がお辞儀をするように顔をうつむけていた。他人の目を――特に高貴な人間の瞳を覗くという行為は、この国では禁忌に当たり、それを破ったものには罰が科せられるからである。


 これは、瞳邪鬼・朱藍の再来を恐れた犀狼帝の定めた法で、その瞳を覗くことがなければ、鬼の操る瞳術にかからないだろうという理屈が元になっている。

 しかし、時代が過ぎゆくうちにその理屈は形骸化し、その法はいまやひとつの礼儀として、天竜殿に仕える人々に浸透していた。


 だからこそ、特に竜帝や竜妃の瞳を覗くことができる者は、年端もいかぬ子供のほかは、天竜殿付の易者と絵師だけと、厳格に決まっている。易者は占いのため、絵師は肖像画を描くためだ。

 それは婚儀前の竜妃でさえも例外ではなく、実は彼女でさえ、竜帝の瞳を覗いたことはただの一度もない。


 反対に、竜妃が直接覗いたことのある瞳も、絵師のものと、それから師である胡凋の柔らかな鳶色の瞳だけだった。

 竜妃は一時考えると、静かに侍女の問いに答えた。


「……いいえ、今夜はもう少し、後にしていただけるかしら」


 恐ろしい瞳邪鬼の想像が、未だ頭にこびりついている。このままでは、寝台に入っても眠れそうにない。


「それでは、また後ほどお伺いします」


 侍女はそう答えると、静かに戸が閉じた。今度は去って行く衣擦れの音。それからややあって、再びあたりを静寂が支配する。竜妃は閉じた古書の絹の装丁をなぞった。
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