イノセントダーティー
おいしいはずのステーキの味もよく分からないまま食事をすませ、店を後にした。
アオイさんに振られた。そのことばかりが頭を占める。それと同時に込み上げる感情。ごまかせないほど膨らんでいく。
その辺で適当に別れるつもりで歩いていたのに、雑談していると俺のアパート前まで来てしまった。時間の速さを痛感する。
「今日はありがとうございました。アオイさんとご飯行けて嬉しかったです」
もっと、もっとそばにいたい。引き止める言葉を考えた。
「喜んでもらえたならよかった。この前も今日もたくさん話聞いてくれてありがとう。マサのおかげでまた頑張れる。バイバイ」
毎日会う友達との一時的な別れの挨拶のフリをして、それは永遠のさよならを意味していた。元々あの夜のお礼をするためだけに交換された連絡先。結婚している彼女の心に入る余地なんて俺にはない。
今後こっちから連絡したとしても、彼女から返信が来ることはないだろう。来たとしても、それは恋愛を発展させるためのやり取りにはならない。
分かっている。分かっているから、抑えられなかった。ギリギリまで我慢した。だけどもう無理。
「帰したくない」
彼女が背中を向けた瞬間、俺は彼女の背後からその左腕を掴んでいた。強く、強く。
「マサ……」
「あの日体が冷えるまで外で泣いてたのは旦那さんと何かあったからなんでしょ? だったら俺がそばにいる。俺のこと、旦那さんの代わりにしていいから……」
本当は嫌だ。旦那の代わりになんて絶対なりたくない。だけど、彼女の懐に入るにはその言葉しかないと思った。