H ~ache~
「待って下さい!近いので平気です!」
「煩い。早く乗れ」
裏口に停まっていた車の後部座席に環を押し込み、自分もその隣りへ乗り込んだ。
(運転手付き…この人は何者?)
「家は何処だ?」
環は渋りながら住所を言うと男は運転手に告げ、車は静かに走り出した。
「近いんだな」
(だからそう言ったのに…)
「都心の一等地だ。…お嬢様か?」
高校卒業を機に一人で暮らすことを望んだ環の為に、父親が購入した部屋。
それだけを聞けば環はお嬢様だと思われがちだが、環は首を横に振った。
「違います」
近いと言っただけあり、車はすぐに環が住むマンションに到着した。
「…ありがとうございました」
男に丁寧に頭を下げて車を降りようとすると、腕を強く引かれた。
「環」
「え?」
体制を整えようとしていると、目の前に男の顔があった。
(なに?…どうして)
何故、自分はこの男とキスをしているのか…
「っ…」
上唇を突くように撫でられ、“やめて”と口にしようとすると熱い舌が差し込まれた。
舌を絡められ性急な愛撫についてゆけずに、目を見開いたまま視線を彷徨わせると、鏡越しに運転手が気まずそうにうつむいているのが見えた。
男の二の腕を力を込めてギュッと握ると、男は名残惜しそうにしながら唇を離した。
「忘れるなよ?」
男の胸に手をついて体を離すと、男はニヤリと笑い耳元で囁いた。
「帰ります!送って頂いてありがとうございました!」
礼を言い、逃げるように車から降りると男は窓を開けて声をかけた。
「ゆっくり休め」
走り去る車を呆然と見ていたが、環は我に返ると足早にマンションのエントランスへ入った。
「ただいま」
一人暮らしだが、部屋に入るときには“ただいま”というのが習慣になっている。
(何がゆっくり休め。よ…)
環は本部の男の顔が忘れられなかった。
冷たく感じられる程に整った顔立ち。魅惑的な声…
(妙なオーラというか威圧感のある人だった…チョコをもらったし、いい人なのかもしれないけど、とても…なんていうか)
ソファに腰を降ろし、ぐったりと背凭れに背を預けて天井を仰いだ。
(あのキスはどういう事なのよ…まさに、人の上に立っている人の言動よね…断られるとか考えてない)
職場の先輩たちから聞いていた本部のイメージとは遠いあの男を思い出し、ジャスミンティーを一口飲んだ。
(忘れるなってどういう意味だろう…)