プラス1℃の恋人
「ただいま帰りました」

 午後七時を過ぎたころ、聞き慣れた声が飛び込んできた。

 ホワイトボードの前に立っていた青羽は、飼い主を待っていた犬のように目を輝かせ、声のしたほうに向きなおった。

「なんだ、まだ残っていたのか」

 千坂はどさりとデスクの上にカバンを置き、椅子に腰かけた。
「暑いな」と言いながらうちわを取り出しバタバタ煽ぐ。
 その姿は、いつもどおりの千坂だった。

 それから千坂は児嶋と二階堂を呼び、5分後にミーティング・ルームに来るよう言った。

「あとは俺らでやるから、須田は帰っていいぞ」

 自分の席で指示を待っていた青羽は、どうやらお役御免らしい。

 エアコンの切れたオフィス。一刻も早く、ここから逃げ出したかったはずだ。
 けれど青羽は、千坂に言った。

「私も手伝います!」

「おまえには十分手伝ってもらった。あとはこっちでやるから問題ない」

「でも……」

 残ったからといって、これ以上自分にできることなどない。
 在庫数は一覧でまとめ、提出するだけになっている。

 児嶋や二階堂に比べたら、青羽の任された仕事は些細なものだ。
 けれど、結末を見届けたかった。

「そうだ。2階のカフェでコーヒーでも買ってきましょうか? コンビニにお弁当も売っているはずだし。主任、なにも食べていないですよね?」

「要らん。いいからおまえは帰れ。また倒れられたら厄介だ」

 こめかみから頬に向かって、汗が伝い落ちた。
 節電モードに入ったオフィス内は、だいぶ室温が上がっている。

 無駄な残業でまた体調を崩されるよりは、次の仕事に向けて英気を養えという意味なのだろう。
 千坂の思いもまた、青羽には痛いほどわかった。

「主任も無理しないでくださいね。若くないんですから」

「うるせーな。はやく行け」

 そう言って千坂は、しっしっと手で追い払う仕草をする。

「……じゃあ、お先に失礼いたします」

 千坂の言葉に、青羽は素直に退散するしかなかった。
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