プラス1℃の恋人
 彼女はなにも言わなかったが、千坂はすべてを悟った。

 自分がどうして、こんなにも急に業績を上げることができたのか。
 彼女が自分のプロポーズをどうして渋ったのかを。

 ストーカーというのは、あいつのことだったのか?

 おまえが顧客と寝ていたから、俺はここまでのし上がることができたのか?

 妊娠したというのは本当なのか?

 そしてそれは誰の子なんだ。

 聞きたいことは山ほどあったが、一度口を開けば罵詈雑言を浴びせてしまいそうだった。


 千坂は彼女を無理やり病院に連れて行った。
 彼女はなにも言い訳せず、黙って診察の屈辱に耐えた。

 結局、彼女が妊娠しているというのは、相手の単なる思い込みだった。


 ふたりの関係は、急速に冷えていった。
 そして、彼女はその後、千坂の前から姿を消した。

 急に辞表を出した彼女について、別の男と結婚するためだとか、年老いた両親の面倒をみるために田舎に帰ったとか、いろんな噂が飛び交った。

 けれど、彼女が取引先の男と関係していたということは、他人の知るところとはならなかった。

 いや、本当のことは、千坂でさえも知らないのだ。

 取引先の男は精神を病み、会社を辞めてどこかへ行ったらしい。
 そして彼女本人からも、ついに真相が語られることはなかった。

 千坂のなかで何かが壊れ、なにも手につかなくなった。
 営業成績が下がると余計に、これまでの契約のすべてが、彼女が関係者と寝ていたせいだと思いつめるようになった。

 限界を感じた千坂は、内勤業務への異動を願い出る。

 もちろん上司をはじめ、社内の者はみな千坂を止めた。
 けれど営業成績が下がっているのは確かなことであり、最終的には「気分転換になるならば」と配置換えを認めてくれた。

 そして時は過ぎ、いまに至る。
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