プラス1℃の恋人
 ある日、千坂はひとりで大口の取引先を訪問していた。

 体調がすぐれない彼女は、内勤の作業を手伝っている。
 もともと彼女が同行についていたのは研修のためであり、千坂ひとりでも十分対応できる仕事だった。


 手続を済ませたあと、担当者が千坂に言った。

「いつも同行していた彼女、最近ついてこないんですね」

 その担当者は、優しげな風貌をした中年男だった。
 千坂の後ろにひっそりと控えている彼女にも、優しく気を遣ってくれるような、絵に描いたような紳士である。
 彼女もここに来るときだけは、リラックスしていたようだった。

「結婚に向けて、忙しいみたいで」

 思わず口をついて出た言葉だったが、なぜか相手の顔色が変わった。

 結婚に向けてというのは、半分は本当で半分は嘘だ。
 千坂はすでにプロポーズしていたが、「いろいろと整理することがあるから、待ってほしい」と彼女に言われていたのだ。

 けれどそのあとすぐ、「整理すること」とは何なのか、千坂は思い知ることになる。



 千坂は彼女のマンションのそばに車を停め、不審な動きがないか見守っていた。

 もうすぐ日付が変わるという頃、千坂の車の脇をひとりの男が通り過ぎた。
 男はマンションのオートロックの前に立ち、チャイムを鳴らす。
 すると中から出てきたのは、千坂の恋人だった。

 ふたりは入り口のまえで、しばらく話し込んでいた。
 正確には、男が一方的に話していて、彼女は黙ってうつむいているだけのようだった。

 ふたりの様子が気になった千坂は車から出ようとしたが、マンションを見張っていたことを知られるのもまずい。

 千坂は目をこらして、ふたりの様子をじっと見つめる。

 相手の顔はよく見えないが、すらりとした長身の男で、仕立てのよさそうなスーツを着ていた。

 誰だろう。親戚か、知り合いか……。


 すると突然、相手の男が彼女の顔を平手打ちした。
 千坂は車から飛び出した。
 なおも暴力を振るおうとする男の体を羽交い絞めにし、必死で彼女から引きはがす。

 男の顔を明かりに向けると、それは千坂のよく知っている人物だった。

「なんであんたが……」

 男は、つい先日千坂が訪問したばかりの、取引先の担当者だった。

 スーツは上質のものだったが、不精髭が生え、怒りのせいで目は血走り、髪はぼさぼさに乱れている。
 いつもの紳士のような姿とは違い、まるで亡者のようにうつろな目をしていた。

「僕の子供を身ごもっているくせに、ほかの男と結婚するというのか。あんなに便宜をはかってやったというのに……。社員に体を売らせて仕事をとるのが、あんたの会社のやり方なんだな」

 最後の言葉は、千坂に向けられたものだった。
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