プラス1℃の恋人
「あーあ、児嶋くん、残念だったなあ。せっかく頑張って予約とってくれたのに」

 少し酔っていたこともあり、つい児嶋の名前を出してしまった。

 軽く受け流してくれると思ったのだが、千坂は「児嶋ね」と急に不機嫌になる。

「人のものに手を出そうなんて、十年早いわ」

「え? キャンセル出たって言ってましたけど」

「いや、彼氏のいる女ってことだ」

 いまのはそら耳か?
 それとも、青羽が突っ込むことを前提にして、千坂がボケたのだろうか。

 とりあえず後者と判断し、青羽は知恵を絞って答えを返す。

「いもしない架空の彼氏に? やだもう主任、酔っぱらってますね。このビール、けっこうアルコール度が高いのかなあ」

 ドリンクメニューを取ろうとした青羽の手を、千坂が急に掴んだ。
 いつになく真剣な表情に、青羽の呼吸が止まる。

 会話が途切れ、沈黙に包まれる。
 手は握られたままで、身動きもできない。

 窓の外では、オレンジ色の絨毯のような夜景が輝いていた。

「……なぁ、そろそろおまえのかけた呪いを解いてくれないか」

「呪い?」

「ああ。あれからずっと、おまえのキスを待っているんだが」

 いきなり何を言い出すのだろうか、この人は。

 動揺を悟られないように、「やだもう~」と手を引っ込めようとするが、がっちり捕らえられた右手は、いまも千坂の手のなかだ。
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