プラス1℃の恋人
 確かに、あの日青羽が千坂にかけたのは呪いだったのかもしれない。

〝私がキスしたら、生まれ変わって、新しい人生のスタートが切れます〟

 そう言ったまま、青羽はなにもしないで背を向けた。

 過去に縛られて、元カノの思い出と一緒に心中してしまえばいい。
 あの日、青羽の心にあったのは、目の前にある幸せにちっとも気付こうとしない、千坂への苛立ちだった。

 かわいそうな人。
 でも私も傷ついたんだから、これでおあいこだ。

 ――でも、この人もこの人なりに、悩み、傷ついてきたのかもしれない。


 青羽は、空いていた左手を千坂の手に添えた。
 にこっと笑顔を向けたあと、千坂の拳にチュッとキスをする。

「はい、呪いは解けましたよ」

「……」

 千坂はがっくりとうなだれた。

「……いまさらムシがよすぎるよな。くそっ! 1年前の自分を張り倒したい」

 千坂は大きな体を丸め、なにやらブツブツ言っている。
 そして握りしめた青羽の右手を自分の額に引き寄せ、祈るような姿勢になった。

「すみません。俺がバカでした。チキンでビビリな腰抜けオヤジでした。どうかもう一度、あの夜の続きをやり直させてもらえませんか」

「主任……?」

 丸い目を少し細め、熱っぽく青羽に向けられる視線。
 もしかして千坂は、あらためて青羽との関係をやり直したいと言っているのだろうか。

「本当にあのときは悪かった。おまえのまっすぐな思いを、俺は卑怯な手段で踏みにじった。昔の女のことを引き合いに出したけど、正直どうでもいいことだったんだ。女ってのはタフな生きものだよな。あいつ、とっくの昔に別の男と結婚して、今は3人の子供がいる。毎年写真入りの年賀状が送られてくるよ」

「じゃぁ、どうして」

 どうしてあのとき、彼女の話を引き合いにして青羽を遠ざけようとしたのか。

 心の傷が癒えていたなら、青羽の気持ちを受け止めてくれてもよかったのに。
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