愛し君に花の名を捧ぐ
 だが、それもすぐに頓挫してしまう。

「おい、颯璉(そうれん)。仔リスが逃げだそうとしているぞ」

 リーリュアの前に、低い声でしゃべる熊が現れたのだ。

 進行方向を壁のような巨体で阻まれ、声の主を仰ぎ見る。目が合うと、黒々としたヒゲに覆われた厳つい顔に似合わず人好きする目が、嬉しそうに弧を描いた。

『あいかわらずみたいですな、姫さんは』

 旧知のように熊が発したのは、アザロフで使われている言葉である。

『……だれ?』

 葆の宮処に知り合いはいない。ましてや熊になど、余計である。混乱して後退ろうとするリーリュアの腕を、キールが引いて背に庇い警戒した。
 その様子を見て熊が豪快に笑う。

『チビも変わっていないようだな。まだお姫様のお供のままか』

 大きな手が、決して低くはない位置にあるキールの頭をがしがしと撫で回す。

『なにをする!』

 手を払いのけられても、熊のニヤニヤとした笑いは収まらない。その不敵な笑みに、ふとリーリュアの古い記憶が呼び起こされた。

『もしかして、あのとき苑輝様と一緒にいた!?』

『おっ。やっと思い出してくれましたか』
 
 あまりにも当時とは違う姿に、キールも目を見開いて、頭のてっぺんからつま先までじろじろと見回している。

 苑輝は彼のことをなんと呼んでいただろう。必死に記憶を辿ってみる。

「……え、ん。ごう、えん?」

「お久しぶりです、姫君。初めて来た葆はいかがですか?」

リーリュアがたどたどしく口にした名に、勇ましい武官の姿へと変貌を遂げた劉剛燕《りゅう ごうえん》は満面の笑みで応え、恭しく拱手した。
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