愛し君に花の名を捧ぐ
 ふと脳裏に、遠い昔、木の幹にしがみついていたリーリュアの姿が浮かんだ。

「さすがは山の仔リス……だな」

 くすり、と思い出し笑いが苑輝から漏れる。
 博全が珍しいものを見たかのように目を見張り、口角を僅かにあげ満足げに小さく頷く。

「それから。劉剛燕が異国の青年を従者にしたのはご存じでいらっしゃいますか」

「異国のだと? 珍しいな」

「お気に入りのようで、連れ歩いております。近いうちにお目に入れられることもあるかと」

 含みを持たせた言葉を残し、博全は勅書を手に退室していった。


 リーリュアには伝えていないが、曹皇太后はあの直後に発作を起こして倒れ、いまなお予断を許さない状態がつづいている。

 望界帝を殺してから……いや、その前からなのかもしれない。皇太后の精神は酷く不安定なものになっていた。時期を前後して、たびたび卒倒を起こしていたことも関係しているのだろう、という侍医の診断もあった。

 そんな状態でリーリュアの姿を見た皇太后は、夫の元へ新たな妃がやってきたと勘違いして興奮し、それがいままでになく大きな発作を引き起こしたのだ。あのときの皇太后は、先帝は自分が毒殺して、既にこの世にいないことさえわからなくなるほどに錯乱していた。

 
 苑輝は冷めかけた茶で喉のざらつきを流す。

 一見華やかな後宮の醜さや恐ろしさを身を以て体験したというのに、まだリーリュアは国に帰ろうとしない。

 数日経ってなお手に残る感覚を思い出す。図らずも腕に抱いた身体は、大きさこそ違えども昔と変わらず、少し力を入れれば壊れそうに華奢なものだった。
 しかし、それだけではない柔らかさと、薬の匂いに混じって鼻腔をくすぐった花の蜜のような香りを持つ彼女を、苑輝は知らない。

 世の安寧を願い、期待を込め向けられる瞳は以前と同じ澄んだ翠緑。しかしその奥底に異なるものを求む色が増え揺らぐのを感じ、苑輝の心を乱した。

 あれからまた、熱がぶり返したと聞く。無理もない。殺されかけたのだ。
 苑輝は痛々しい姿を思い出して歯噛みする。思悠宮に戻った颯璉から知らせを受け大急ぎで向かったが間に合わず、リーリュアには辛い思いをさせてしまった。

 異国の空の下にたったひとりでいる彼女が、こんな自分を頼ってくれているのかと思うと、皇太子の位に就いて以降、公明を心掛け私(わたくし)は捨てたはずの心中に湧き上がる感情に戸惑う。

 少年期から軍に席を置き、周りにいた女といえば、腹の内ではなにを考えているのかわからない、胡散臭い笑みを湛えた後宮の者ぐらい。唯一の例外が方颯璉だ。

 きっとこれは、父性や庇護欲といったものなのだろう。
 突然目の前に現れた、あまりにもか弱い存在に対して生まれたものに、そう名前を付けて納得した。
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