そろそろ恋する準備を(短編集)




 ため息をつくと朝比奈先輩は、肩に乗せていた手の甲をすりすり擦りながら「ほらほら、おれの背中に抱きついて、王道シチュエーションを楽しもうよー」なんて言って、身体を左右に揺らす。

 両足スタンドで立っている自転車も揺れて、ちょっとでもバランスを崩したら倒れてしまいそうだ。

「ちょっ、危ない……!」

 慌てて先輩の首に抱きつくと「あはー、背中に胸があたるー」なんて……。

「へんたい!」

 腹いせに、首に回した腕を絞めてやると、げほげほと咳込みながらも「息できないよ~」と楽しそうな声を出す。

「もうやめてくださいよね!」

「それは分かんないなあ」

「嘘でも分かったって言ってください……」

 自転車を揺らすのを止めてペダルを漕ぎ始めると、後輪がカラカラと軽快な音を立てて回る。
 景色は動かない。風も感じない。揺れもしないからバランスを取るのも楽だったけれど、わたしは先輩の首に腕を回していた。

 高校生の男女が、放課後の公園で、一ミリも進まない自転車に二人乗りをしている様子なんて、はたから見たらひどく滑稽だろう。
 少なくとも、朝比奈先輩と出会う前のわたしなら、こんなことは絶対にしなかった。万が一提案されても、光の速さで断っていただろう。


 そんなことを考えていたら、びゅうと、少し強い風が吹いた。
 そうしたら風で揺れる先輩の髪から、爽やかなシャンプーの香りがして……。思わずうなじに、噛みつきたくなった。

 すぐに首を横に振って、芽生えた変態的な思考を消す。
 違う、違う。朝比奈先輩じゃないんだから。そういう趣味に目覚めたわけじゃなく……。多分このひとと長い時間を過ごし過ぎて、汚染されたんだと思う。



< 5 / 74 >

この作品をシェア

pagetop