戸惑う暇もないくらい
「お風呂空いたよ」
「うん、入ってくる」

濡れた髪にバスタオルを首に巻いた那智がリビングに入ってくる。
入れ替わりにお風呂へ向かおうと立ち上がった。
通りすがりに那智の顔に視線がいってしまう。

「ん?」
「…何でもないよ」

私の視線に気付いた那智に問われるもそのままリビングを出た。

お風呂上がりの那智は眼鏡になる。
それは一緒に暮らし始めてから知ったことだった。
普段コンタクトをしているのは知っていたものの、今までの泊まりでは眼鏡にならなかった。

実は、眼鏡の那智がけっこうツボだったりする。

モデルの仕事で掛ける眼鏡とは違い、ほんとにリラックスしてる感じとか、普段ワンコっぽいのに眼鏡を掛けるだけでちょっとクールに見える感じとか、密かにどきどきしていた。

若干眼鏡フェチの気質があるのは自覚しているものの、それを那智に悟られるのは気恥ずかしくて全くなんとも思っていない風に装っている。

「こういうとこが可愛くないんだろうな…」

鏡に向かい自分に呟く。
自分が年上だからなのか、この性格だからなのか、素直になれない部分がある。

その上こんなネガティブ思考なんて面倒くさい女すぎる。

頭を振って切り替えるように浴室に向かった。



「あ、はーちゃんもアイス食べる?」

リビングの扉を開けた瞬間、食べかけのアイスを口に運ぶ手前で那智が言った。
その頭はまだ濡れているのが一目で分かる。

「那智…そういうのは頭を乾かしてからって何回言ったら分かるの?」
「大丈夫、もう春だし」
「そういう問題じゃない」

改める気のない那智にため息をついて脱衣所からドライヤーを手に戻ってくる。

テレビの前にテーブルがあり、さらにその手前に座り込む那智の後ろに回るようソファに腰かける。
持ってきたドライヤーのスイッチを入れ、那智の髪に触れた。

「わーい」
「わーいじゃない。身体が資本の仕事なんだからちゃんと自己管理しなさい」
「だって俺にははーちゃんがいるから」
「私は母親じゃないんだけど」

そう言うと那智は意外にも真面目な顔で振り返って私を見つめ、ドライヤーを奪ってスイッチを切った。

「あ、こら」

そのまま身体を反転させて伸びてきたかと思うと掠め取るように私の唇に口付けた。

「!」
「葉月のこと母親なんて思ったことない」

少し低くなった声と鋭くなった那智の目に急に心臓が煩く鳴り出す。

こういう時だけ名前で呼ぶなんてずるい。

「分からないならもっとする?」

不意討ちのキスと那智の真剣な表情になかなか言葉が出てこないでいると、さらに那智が詰め寄ってきた。

「わ、分かっ…んっ」

答える前に再び唇を塞がれる。
単に唇を合わせるだけではなく、その口づけは一気に深いものへと変わり、身体の力が抜けていく。

「…どっちにしろしちゃうんだけど」
「…っ」

しばらく口内を好きにしていた那智はゆっくり唇を離すと獣のような熱を帯びた目で私を見つめた。

私は那智のこの目に弱い。

さらりと私の前髪を指で流しながら、那智の唇は戯れるように額や頬に軽くキスを落とす。

目が合ってまた唇を重ねると、それは甘い夜の始まりとなった。

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