世子様に見初められて~十年越しの恋慕


「世子、どうかしましたか?」
「あっ、………いえ、何でもありません」

どういう事だ?
名家揃いだと聞いていたが、あの娘がおらぬではないか。
終始伏目がちな娘達だが、見間違える筈はない。
中には、私に媚びを売ろうと目配せまでする者だっているというのに。

ヘスは自分のトルパンジを手渡した娘を探していたのだ。

「大妃様、申し訳ありません。急用を思い出したので、これにて失礼させて頂きたいのですが……」
「そうか、それは残念だ」
「また後でご挨拶に伺います」

ヘスは丁寧にお辞儀し、娘達にも軽く笑みを向け、その場を後にした。


「何故だ。何故、あの者がおらぬっ!」
「世子様、どうか落ち着いて下さいませ」
「私に、あれほどの啖呵を切ったのだ。あの場におらぬのは納得がいかぬ」
「法螺を吹いたのではないでしょうか?」
「法螺だと?」
「はい」
「あの者が本当に名家の娘なら、あの場にいた誰よりも……」
「…………世子様」

ヘスは資善堂に戻る道中、拳を固く握りしめ、必死に感情を押し殺していた。

ヘスがトルパンジを渡した、あの日。
ヘスは生まれて初めて頬を叩かれた。
吐息がかかるほどの至近距離で、甘い香りを漂わせながら、大きな瞳に零れんばかりの涙を溜めて。

叩かれた痛みよりも娘の顔が脳裏に焼き付いて、ヘスの心に大きな衝撃を与えていた。

王宮で育った世子にとって、女性に囲まれることは慣れている筈なのに。
何故か、あの娘だけは特別な印象を受けたのだ。

王宮の外だったからなのか。
初めて頬を叩かれたからなのか。
それとも、何か別の要因があったからなのか。

ヘスの胸は、ぽっかり穴が開いたようだった。


< 13 / 230 >

この作品をシェア

pagetop