明治恋綴
百合の香りと何かが焦げたような匂いが混ざった空気が室内に充満している。
鉄の扉には棺があり、その棺を中心に人が集まっていた。すすり泣く者、囁く者、様々な声がそこから聞こえてくる。すると、その集団から一歩前に棺に近づく喪服に身を包んだ青年がいた。青年は棺に手を置くと、じっと自分の手を置いた辺りを見つめる。
「…若、そろそろ」
青年の後ろに控えていた付き人の男が青年にそう声をかける。青年は静かに手を棺から放した。
「手筈通りに頼む」
青年は抑揚のない声で導師にそう伝えると、踵を返し集団から抜け出した。
青年の後ろで、棺の入った鉄の扉が重く閉じる音が響いた。

九条院家初代頭首であり貿易会社‘木犀’の総裁・九条院惟隆が死んだ。明治維新の影の立役者で新華族でありながら、突如新政府を抜け、自ら貿易会社を立ち上げ、その界隈の頂点に上り詰めた。

そんな彼が残したのはたった一つの遺言状。書かれていること以外はどうでもいいと言いたげな、堅い意思の表れ。



「本当に先にお帰りになってよろしいのですか?綴様」
付き人の男は足早で歩く青年の後ろに付きながらそう尋ねた。付き人の男に綴様と呼ばれた青年は短くため息をついた。
「あぁ、あそこから先は親父だけで十分だ。俺がいる意味がない。それよりも…」
綴は自分の懐から二つ折りにされている紙を取り出し、片手で広げた。それは祖父が残した遺言状だった。
「ここに書いてある狗狼衆…くろうしゅう、でいいのか。この組織の所在は?」
「調べさせたのですが日本のどこにもそれらしき組織は見当たらず、特定出来なかったそうです。本当に実在しているのでしょうか」
「ここまで爺さんが明確に言っているんだ、あるんだろう。だが、この狗狼衆は遺言状から察するに要人を護衛する組織らしいな。それなら他の華族がこぞって使っていそうだが…」
綴は遺言状を再び二つ折りにし、懐に戻した。丁度目の前に馬車が止まる。付き人の男は綴の前に素早く移動し人力車の扉を開ける。綴が馬車に乗り込んだ後、付き人の男は車夫に行き先を伝え、綴の後に続いた。


< 2 / 6 >

この作品をシェア

pagetop