あたしとお義兄さん
 40.



 その日は一日中辛気臭くなりそうな、じめッ‼︎とした天気だった。


 区役所の平職員である柏木は、戸籍課の窓からどんよりとした空を見上げた。
「なーんか、ヤな予感すんだよなー……」
 平々凡々の人生と容姿を持つ同僚の呟きに、端末に指を走らせていた西村は『フッ』と鼻で笑った。
「こんな職場にヤな予感もへったくれもあるかよ。天変地異でも無い限り、騒動が起こるとしたら、精々『実子と信じていたのに養子だった』とかいうパターンくらいだろ?
 それだってウチには安岡さんが居るんだし。何も起こりゃーしねーよ」

 そうだよなぁ、と柏木は軽く溜息を吐いた。
 生き死ににまで関わるとはいえ、書類一枚、入力一つのものだ。
 ここで新人として働き始めて早五年。
 ワクワクした感情も既に失われてしまった。


 ぽん。

 肩に置かれた手の感触に柏木は我に返った。
「それでも私らの仕事は、人と人との結び付きや別れを国に代わって見届けるという大事なもんさ。確かに大層に誇るでも大上段に構える程でも無い、細やかな手助けだ。
 だが、実は間接的にその人々の権利や生活を守る、なんていう隠れたヒーロー的な存在でもあるんだぞ?」

 暖かい手の持ち主はベテラン職員、《癒しの安岡》だった。
「──────安岡さん」
「お前さんもちっこい頃は戦隊モノが好きだったろう?」
 にやりと口の端を持ち上げる人情派の先輩に、『はい』と笑みを返し、柏木は頷いた。

 そうだな、住民が日々の生活を穏やかに送れる様に見守る。それは地味だが確かに大事な仕事の筈だ。

 おしッ‼︎初心に返って頑張るぞ!

 その意気込みが伝わったのか、隣の西村が呆れた様に『…単純…』と呟いた。
 うるへー、とか言い合いに湧き起こった周囲のクスクス笑いの中、肺に目の前の電話が甲高く鳴り、内線のコールを知らせた。
 振り上げた拳でそのまま慌てて受話器を取ると、それは受付からだった。

「あの、すみませんッ!婚姻届を出しにお見えになられた御一行様なんですが、どうも問題ありそうなご様子ですので、そちらで頑張って対処お願いします」
「────────は?」
 困惑と焦燥が綯い交ぜになった口調で、慣れ親しんだ女性の声がそう告げると同時に、《御一行様》が異様な雰囲気で現れた。

 先頭は初老の穏やかそうな男女。 特に男性の方は、いかにも地位も金も有りそうな威厳を漂わせている。
 女性の方は趣味の良いスーツに身を固め、始終苦笑を浮かべている。
 付き添いでなければ、お互いに再婚であろう。良い夫婦になりそうな感じだ。


 ……問題はその後ろにあった。


 見目麗しい、二十代後半から三十代前半の好青年。
 身形もスタイルの良さをさり気なく引き立てる高級品に身を包み。
 身長も、学歴も、収入も、恐らく自分などとは比較にもならないだろう。
 女性の結婚相手としては最上に位置すると思われる。



 ────────但し、泣いてさえいなければ。



 怪我でもしているのか、友人らしい(こちらも美青年だが、如何せん苦虫を噛み潰した様な表情で台無しである)青年に支えられ、ぐすぐすとしゃくり上げている。
 その逆の手はしっかりとふくよかな女性の掌を握り締めている。

 まるで、少しでも力を緩めれば逃げられるとでも言わんばかりに。



「───────ウザい──────」



 憮然とした顔をした童顔な彼女が、ボソリと呟いた。

 しくしくしくしくしくしくしくしく。濡れた黒曜石の様な美しい瞳、アーモンド型の双眸から滔々と涙が溢れて尚更、辛気臭くなるこの場の空気。
 しかし、全く彼女の方は絆される気配は無い。
 寧ろ、舌打ちでもしそーな雰囲気である。

「……ああ、もういいですよ。養子縁組を組まなきゃ問題ないんですから、お義父さん達はちゃっちゃと先に出しちゃって下さいな」
 投げやりにそう言い放つ彼女に、
「いっそ問題ある様にしてあげようか?鈴子ちゃん」
 お義父さん、と呼び掛けられたダンディな初老の紳士が阿る様に優しく、だが何処か不敵な口調でそう尋ねた。
「っく。再婚同士の連れ子であれば、っふ、民法734条1項の但書において、養子縁組を成されていたとしても、ひっく。婚姻は可能ですよ、お父さん」
 すんすん泣きながらも美青年が冷静に口を挟んだ。
 義父と義妹が揃って舌打ちをする。
 それを見て、年配の女性とベソをかく彼に肩を貸している青年が深々と溜息を吐く。

 どうやら状況を鑑みるにこういう事らしい。

 まず、ダンディと際立った美青年が親子。年配の女性とふっくら童顔の彼女も親子。
 親は親同士、子は子同士と結婚の予定を立てるまでに至ったが、美青年側に何らかの落ち度があり、彼女が渋り出した。
 しかしここまで来てはいるのだ。書類は出すか出さないか、それだけの事である。
 一体何が問題なのであろう。

「──────で、受付で揉めた原因というのは何でしょう?」
 いつまでも呆気に取られていても仕方が無い。──────無い、が。

「………これは、また………。あの、そこに用紙がありますから、書き直されて再度提出して戴けますか?」
 丁寧にアイロンを掛け、皺を伸ばし、細心の注意を払って繋ぎ合わせているのは分かるが、やはりこのまま受理する訳にはいかない。

「リン、お願いです。もう一度だけチャンスを下さい‼︎どんな要求も力の及ぶ限り飲みますから、ここに署名捺印をッ‼︎」
 よろり、としながら婚姻届を片手に、美青年は彼女の手を握り締める。やはり怪我してるのか、さり気なく踏ん張ってるっぽい。
 リン、と呼ばれた彼女はフワフワのファーが付いたキャメルのジャケットを着て、下は黒のカラーデニムを履いている。可愛い系だ。
 その彼女が小首を傾げて、美青年にニコリと笑い掛けた。



「───────────イヤ」



 一縷の望みを粉・砕とばかりに叩き潰され、釣られて微笑み掛けた彼は再び足下に泣き崩れた。

「二・度・と、御免ですッ。これが受理されないとなれば結婚出来ませんね?仕方ありませんよね?お義兄さん」

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