あたしとお義兄さん
 39.


 陽が傾き出し、長く伸びた日光に明暗が室内をくっきりと分ける。
 静馬は穏やかに語り出した。

「あの女性がこちらに見切りを付けようとしたあの時、私は呆然としながらも頭の中をフル回転させて考えていました」
 ちらり、とパイプ椅子で足を組む親友に強い眼差しを寄越した。
「………死ぬ程気落ちしていたかと思っていたんだがな」
「気落ちしていましたよ。私が欲望の虜になって、穴だらけの計画を衝動的に立てたが為にリンを取り逃がしてしまったかと」

 実際、人の声など聞こえぬ程に目の前が絶望に黒く覆われた。
 その瞬間から自分の左脳と右脳は、持てる能力の全てを今度の計画に費やしたのだ。

「時に一也、《吊り橋効果》という理論は知っていますか?」
 顎を手で支えた青年医師は眉を顰めた。
「ああ。アレだろ?一緒に揺れる吊り橋を渡ったり、緊張する体験を共有したりした男女はそのドキドキを恋愛のもんとして発展させやすいとか、いう………………お前……」

 静馬は唖然とした表情の一也に深く頷いた。

「リンが私を嫌っていない事は分かっていました。
 あの女性は過去の経験から、男性全般に不審を抱いています。その延長として整った顔の男は往々にして気位が高い、女性蔑視の傾向がある。交際は周囲からのやっかみを受け易く面倒だ、と決めつけていました。
 ───────けれど、私は知っています」
 黒い微笑みを何故か爽やかに浮かべて、静馬は言い放った。
「リンは面食いです。それも私の様な男はかなりタイプの筈です。ならば手を変え、押すのみ、と考えました」

 一也は白衣の襟をぱたぱたと意味なく折りながら、思った。
 彼女との音信を断ったと聞いた時、一也の脳裏を掠めたのは、ひょっとして静馬が『押してもダメなら引いてみよ』という搦め手として距離を置いたのか、という事だった。

 俺が甘かったよ、リンちゃん。そうだナ、こいつはこういうヤツだった…。

 茶髪の青年医師は素直に猛反省した。
 仕事上では様々な駆け引きを華麗に披露するこの男も、こと義妹に関しては辞書に『引く』とか『退く』と言う文字がストーカー並みに載っている筈も無く。

「あの説を鵜呑みにした訳ではありませんが、『一緒に特異な状況を乗り越えた男女間に芽生えた絆は、その親密度が高ければ高い程特別なものに成り得る』というのが私の持論です。
 事件が起こらないのであれば、起こしてしまえば良い」



 そんなモンは会議室で起こしとけーッ‼︎



 ぶっちゃけ義兄はアクション映画の様な状況を作る事で、彼女を助けて恩を売りつけた上、『あん時ゃーホント、大変だったよねぇ』的な盛り上がる二人だけの強烈な思い出を演出しようとしたのだ。

 下請け社長の甥っ子に入れ知恵したのもこの男。手元のパソコン一台を駆使して、この仕掛けを実行した。
 余りの大胆で狡猾な親友の策に、一也は唸った。
「自身の怪我や、今回の騒動まで全てお前の計画か?」
 静馬は治り掛けの脚をポン、と軽く叩いた。
「いいえ、計画をさり気なく誘導したのは私ですが、まさか彼があんな粗悪な売人に引っ掛かるとは……。多分、取引値が格安だったんでしょう。こちらは当初、解放されるまでおとなしくしている予定でした。
「──────あのおっさんはお前等を放したら爆死するつもりだったんだろう?」
 ぐい、と身を乗り出した青年に、美貌の親友は悪辣な笑みで返した。
「一也、私が彼女と自らの幸福以外を気に掛ける様な殊勝な性格をしているとでも思ったんですか?」
 まあ、状況が状況でしたから、今回は『ついで』に助けましたがね。
 静馬はそう、さらりと付け加えた。
 一也がその人道に反した物言いに思わず立ち上がった、と同時に、




 ズバンッ‼︎




 ドアが物凄い音を立てて開いた。
 そこに義妹。耳にワイヤレスヘッドフォン。
 彼女は般若の形相で真向かいの棟の窓を指差す。
 そろり、と男二人が視線を向けると、そこには……
 でっかい縫いぐるみが三脚の様に脚を広げて立っていて。
 大きく開けた口から、赤い光が発せられていた。



「……赤外線レーザー発信機……」



 ツインテールのマジカルレディがステッキで、それ等を指してニッコリ微笑っていた。

 ひゅうううううぅうううッ‼︎
 風を切る音がした。同時に床を蹴り、キレ良く空気を切る義妹の右脚。



「こぅのおおおおおッ、ど腐レ義兄ィいいいいいい──────ッ‼︎」



 渾身の一撃が見事に義兄の延髄に決まる。
 静馬の姿がベッド上から一瞬で消えた。
 呆気に取られる一也の前をダッシュで、通り過ぎると、鈴子は机の上に置いてあった署名捺印済みの婚姻届を出してビリビリに破る。

「ひゃあ‼︎何をするんですかッ、リン⁉︎」
 スライム並みの回復力で立ち上がった静馬は、痛みも忘れて叫んだ。
「『何をする』だあッ⁉︎あたしの純情と献身と感動と流した涙を返しやがれぇッ‼︎」
 泣きながらとことん義兄を痛め付ける鈴子に、既に見境は無かった。
 完膚無きまでに敵を殲滅し、踵を返す復讐の鬼の足下に、これまた瀕死の静馬が泣きながら謝り、ゾンビの様に縋っている。


「──────── 一也先生」「……はい」
 いつの間にか傍に泰然と佇む美少女の呼び掛けに、一也は素直に返事を返す。
「アナタ、あの男を彼女に焚き付けた過去をお持ちだそうね」
「……………………」
 砂の輪郭を持つ白衣の主は、若干消え掛かっていた。
「責任、取んなさいよ。一生」
「─────────はい」


 千切れた婚姻届が風に舞う。
 夕暮れ時の病院にカラスが一羽、前途多難なこの恋をまるで暗示するかの如く、カァーと不吉な歌を添えていた。

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