アンバーメモリー
ウイスキーと2人の夜

 待ち合わせの場所に彼女はいない。
仕事を早めに切り上げて会社を出てきたというのに、待ちぼうけとはむなしい。
薄暗くなり始めたバーはまだ人も少なく、待ち人を待つ身としては少し居心地が悪い。
目の前のガラスの向こうには東京らしいビルが並び、その向こうに夕焼けが広がる。あと十分ほどで陽は沈むだろうか。
 一人、先にカクテルをもらう。直に来るだろうと思って頼んだマティーニは、あっという間に空になる。バーテンダーに勧められるままに、二杯目のカクテルをもらう。何かの賞を取ったそうだが、正直、今の自分には何でもいいのだ。この退屈な待ち時間を埋める何かがあれば。
周囲のタバコのにおいに、辞めていたはずのタバコを少し懐かしく思う。タバコのにおいを持って帰るだけでも妻は嫌がるのだが、私はほんの少しこの香りを愛しく思う気持ちもある。香りはそれだけ人に寄り添い、記憶として強くしがみつき、離れない。

 それにしても、遅い。自分から呼び出したくせに。
 私はシャツの袖をめくって時計を見る。待ち合わせの時間からもうすぐ一時間になる。陽はとうに沈んでいた。窓の向こうのビルの明かりが徐々にまばらになってゆく。店の中も徐々に人が増えて、適度にざわつく。この雰囲気を楽しむこともよいかもしれないが、貴重な時間を削って、帰り道と反対の方向のこの店に足を運んだ身としては、できれば目的をきちんと果たしてから帰りたい。

 一体彼女は何杯カクテルを飲ませる気だ。
 そう思い、上着のポケットから携帯電話を取り出して、ナンバーを検索していると、「お待たせ。」と聞き覚えのある声がした。その懐かしい声に振り向くと、ようやく待ち人が現われた。白いワンピースが夜の暗闇で少し目に痛いくらい、まぶしかった。胸元までのロングヘアが彼女の笑顔と一緒にやわらかく揺れる。惜しげもなくあらわになっている二の腕。膝丈のスカートのすそからのびる足はすっと長く、引き締まった足首に水色のパンプスが爽やで、それがかえって嘘くさかった。

「ごめんなさいね。思ったより道が混んでいて。」
「電車で来いよ。ほぼ時間通りに来れるだろ。」
少し私が苛立ちを現したが、彼女は笑って「だって、あの人、自分が送るってきかないんだもの。」と言う。あの人、という表現が心にひっかかった気がした。

そして彼女は自分の隣に腰かけると、甘く爽やかな香水の香りが漂った。それは幼くもうすぐ三十五歳になろうという彼女にはとても似合わない。
「若作り。」
 私が言うと、彼女は「そう?」と言い微笑む。やはり顔はすっかり三十代の大人。子供の頃の顔とは違う。
「お気に入りなのよ、この服。彼がプレゼントしてくれたの。昔の彼だけどね。」
洋服を指摘されたのだと思った彼女は、そう言って、ふふふと笑う。無邪気に笑うと、子供の頃の顔が重なるのに、黙っていれば、知らない誰かにも見える。十年ほど会っていない。その間に、顔も体型もずいぶん変わる奴はいるものだ。男も女も。その知らない十年の間に、彼女がどんな男と付き合い、何をしたかも、私は知らない。彼女もまた、自分の十年を知らないだろう。
 
私がカクテルを口に運ぶと、やって来たばかりの彼女のためにバーテンダーがメニューを持ってくる。そのメニューを見る前に、もう一杯目を決めていたかのように、彼女は言う。
「ベリーニを。」
 丁寧に微笑むと、バーテンダーもまた、つられたように丁寧に微笑む。
 子供の頃、同じ教室で授業を受けていた時には見たことのない顔だった。やや赤味のある口紅は、幼さよりも、もはやエロティックだった。

「それで、今日の用事は?人を一時間も待たせて。」
 そう、自分を呼び出したのはこの女だ。それは本当に突然で、具体的な用件も何も聞かされないまま、ただ、時間と場所を指定されて、「会って話したい。」と言われ、私はここへ来た。
「ふふふ、そんな急がなくても。まあ、少し飲みましょうよ。」
 ちょうどよく、バーテンダーがベリーニを持ってくる。その淡いピンク色のカクテルも、二十歳になったばかりの女の子が飲むような色をしていて、似合っていないと思った。
「十年ぶりの再会に、乾杯。」
 そう言って、彼女がグラスを傾ける。
私は、はぐらかされた不満を抱きつつ、彼女に合わせてグラスを傾ける。彼女は笑顔を崩さないまま、嬉しそうにしていた。

「東京で仕事してるって聞いて、久しぶりに会いたくなったのよ。それだけ。」
グラスをテーブルに置くと、彼女は視線だけこちらに向けて控えめに笑顔を作って言った。
「なんだそれ、変なやつ。」
私は彼女の言葉にあきれたように言って、グラスを口に運ぶ。
「あ、その感じ、懐かしい。私が冗談言うと、よくそうやって呆れてたわよね。昔を思い出すわ。」
 そう言われて、彼女を見る。控え目に塗られた桜色の爪で、なんだか嬉しそうに細長いグラスをなぞる。口元はほんの少しだけ口角が上がっている。昔はそんな仕草もそんな笑い方も、見たことはなかった。もしも今が同窓会か何かだったら、変わったな、きれいになったなと言ってあげるべきだろう。
でも、今夜の彼女はそうじゃない。単に見た目が変わったとかではなくて、内側からにじみ出てくるもの。雰囲気とか、そんな簡単なことではなくて、今まで自分が接してきた人物と、本当に同じなのだろうかと思ってしまうような違いを感じる。
 いや、確かに知っている人なんだ。でも知らない人のように見える。
彼女とは、男女を意識する前から同じ町で育ち、同じ教室で学び、奇遇にも高校まで同じで、いつしか自分の方が背も高くなり、それぞれ違う大学に進学することになって、離ればなれになり、頻繁に顔を合わせることもなくなった、懐かしい友人だ。ただ、それだけのはずだ。でも、そんな気持ちじゃいられなくなりそうになる。この妙な、胸騒ぎにも似た感じ。心は落ち着かない。

「時間が経つのはあっという間だよな。なかなか会えなくなるし。地元にいる奴らは集まってるみたいだけど。」
「そうね。女子もね、たまに集まるの。私も少し前まで加わってたけど、みんなもう子供がいて、話が合わないの。だから、なんとなく参加しづらくてね。」
そう言われて、家で待つ自分の妻と子供の顔が思い浮かぶ。今夜は何を食べているだろうか。息子はもう寝ただろうか。起きて自分の帰りを待つだろうか。妻には、同級生と会うということは伝えてある。帰りはそんなに遅くならないよと。妻は穏やかな性格で、同級生が男か女かということも特に気にせず、「そう、楽しんできてね。」と、笑顔で言っていた。
そう、やましいことはない。目の前の美しい女は、ただの同級生だ。

「成人式の後の同窓会で会って、それから、一度だけ会ったのよね。覚えてる?」
唐突に話題は自分と彼女の2人だけの思い出になった。その瞬間、若い2人の男女の姿が浮かび上がり、懐かしさよりも、緊張が走った気がした。

「ねえ、覚えてる?あの十年前の夏の日、海までドライブしたこと。」
表情をこわばらせていた自分と対照的に、彼女は無邪気に笑って言う。思い出を懐かしんでいるだけの、幸せな女の子のように、楽しそうに。そんな姿につられて、自分の力も抜けて、気がつくと笑っていた。
「覚えてる。俺はその日、仙台から車で5時間かけて帰ってきたばっかりだっていうのに、食事だけならまだしも、その後、海まで連れて行けって、お前が言いだして。本当に疲れたよ!」
「あははは!ごめんね、あのときは!」
声を高らかに笑う姿を見て、安堵する。懐かしい思い出の記憶と重なる。こうやって笑う子だった。無邪気に、揃った歯並びを惜しげもなく見せて、大きな目を細めて、顔に皺を作って、喜ぶ子だった。それは、本当にまぶしくて、見ていると嬉しくなるもので、彼女だけが持つ宝物で、一時間待たされたこともどうでもよくなる笑顔だった。

「でもね、あの時、私、車も持ってなかったし、でもあの海、大好きで、どうしても行きたかったの。すぐ後ろに山があって、余計なものはなくて、海だけが端から端まで一面に広がっていて、星もよく見えて、本当に素敵よね。あんなところが地元なんて、私、今でも幸せだなって思うくらい。だから、そう、どうしても行きたかったのよ。」
 海の思い出を語る彼女は少し幼く、かわいらしく見えた。思わず胸を撫で下ろしたくなる。自分の知っている子だと思うと、安心するのだ。
「それに、食事が終わって、でもまだ帰りたくない、って言えなかったのよ。当時の私は。」
そして大人の顔に戻って、寂しそうな目で私を見る。その言葉に、私は何も言えなかった。
 彼女が首を傾けて、髪の毛が揺れるたびに、香りが漂う。 そうだ、思い出した。この香水は、彼女がその海へ行った十年前につけていた香りではないか。どこのブランドかもわからないが、間違いないだろう。清らかな、白いイメージ。海も似合う。恋をしている。まだ本当の愛は知らない。そんな少女が身につけるような爽やかさ。そんな香り。わずかな甘さが切なく感じてしまうのは懐かしい香りだからだろうか。
だからか、と思った。そんな若い頃につけていた香りは、もうすっかりいい大人になった彼女には、少し幼いと思ってしまうのは。
今の彼女のイメージは、よく耳にする一流ブランドだ。そこらへんの香りを選べば、きちんと似合うだろうに。白いワンピースに合わせたのだろうかと思いながら、私はただ、静かに目の前のカクテルを飲む。
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