アンバーメモリー

「お次、何か飲まれますか?」
 飲み干したグラスを置くと、バーテンダーが近づいてきて言った。よく見ている。この店の店員はプロだな。
すると、彼女が言った。
「藤村さんのボトル、頂けますか?」
「ええ、ございます。お持ちしますね。」
 バーテンダーは疑うことなく、微笑んで彼女に言われた通りにボトルを取りに行く。
「誰、藤村さんって。」
 私が言うと、彼女は平然と言った。
「昔、お世話になった人よ。この店に来たら、自分のボトルを飲んでいいって言われているの。」
お世話になったという表現はとても曖昧だったが、その藤村さんという人間が、男であるということは、すぐにわかった。そして、それが恋人ではないが彼女に好意を寄せていた、または現在も好意を寄せている男であるということも。
「おいしいの。ウィスキー。十二年物でね。藤村さんにはいろいろお酒を教えてもらったけど、これは特別。これでウィスキー飲めるようになったの。ね、一緒にいただきましょう。」
 そう言って微笑む彼女が、また知らない人になる。胸の中がもやもやする。
「いや、いい。ウィスキーよりビールのほうが好きだ。」
 そう言って、ビールを注文しようと右手を出してバーテンダーに視線を送ると、彼は「すぐに伺います」とでも言うように、笑顔で頷く。そんな私にかまうことなく、彼女は何も知らないような顔をしている。
「いいじゃない、せっかくだから飲んでみたら?口に合わなかったら残せばいいだけよ。」
 呑気な調子で言う彼女に、私はつい強い口調で言った。
「そんな知らないオヤジのボトルなんか飲めるか。」
 すると彼女は、私の言葉に驚いた様子もなく、そうよね、とでも言うように、微笑む。なぜか満足そうに見える、嫌らしい笑顔だった。
「妬いてるのね。」
「別に妬いてなんか」
 途中まで言ったところで、バーテンダーがやって来た。
「こちらでございますね。飲み方はどうされますか?」
 両手で大事そうに抱えられたボトルには、金のネームタグが掛けられていた。そこには、先ほどの話に出て来た「藤村様」と書かれていた。彼女は慣れた様子で「私はソーダ割りで。」と答える。いつもそうしているのだろう。それから彼女とバーテンダーが二人で俺を見るので俺は悔しくなって「ロックで。」と言った。
 バーテンダーは目の前で静かに二人分の酒を用意する。一つは細身のグラスで、もう一つはずんぐりむっくりの口の広い大きなグラスだった。差し出されたウィスキーは、うっとりするほどきれいな琥珀色で芳しい匂いをたてる。彼女の縦長のグラスの底からは小さな気泡が静かに上に昇ってゆく。
「ハイ、じゃあ、もう一度乾杯。」
 そう言って、グラスを掲げて、自分に微笑みかける。細い喉は気持ちよさそうにアルコールを通す。満足そうにしている、誰だ、この女は。
 私はしぶしぶグラスを口に運ぶ。確かに、この酒は美味しい。いい酒だ。しかし、本心で味わうことはできない。
「美味しいでしょう?」
「ああ。」
 空返事だった。この程度で酔うわけはないと思いつつ、心は虚ろだ。違う、酒ではない何かが、自分の心に穴を空けるのだ。

しばらく何もいわず、二人で窓の外を眺めた。無数のビルの明かりは彼女が来た頃よりも減った。田舎にいた頃、東京の夜はいつもいつも賑やかなものだと思っていた。でも、きちんと夜は訪れる。遠くには月も星も見える。それで、そのうちに目の前のビルの灯りもすべて消えて、人々は家路につくのだろう。自分も彼女も、それぞれ違う場所へ帰ってゆくのだ。

「私、昔もあなたに同じことを言ったわ。」
「何が?」
「覚えていないの?」
「何を?」
突然そんなことを言われてもわかるわけがない。本当にわからない、と言うように私は不思議そうな顔をする。そんな私に、彼女は、まるで‘わかって欲しい’と訴えているようにじっとこちらを見て言った。
「成人式の後の同窓会の時。あの時、私はまだ彼氏いなかったけれど、デートをしている人がいるって話をしたら、あなた、少しふて腐れたから。妬いてるの?って聞いたわ。そしたら、あの時は、うん、って言ってくれたのよね。」
 私は驚いた。もう十五年前のことだ。そのやり取りを、忘れたわけではないけれど、彼女が鮮明に覚えていたとは思わなかった。あの時は、成人したばかりで浮かれて、ちょうど中学の同窓会だったから、数年ぶりに会う人もいたり、進学や就職でなかなか会えない人がいたりで、みんなかなりお酒を飲んでいたし、自分の言葉を、そのやりとりを、彼女が鮮明に覚えているとは思わなかった。
「そんな昔のこと。」
 私が少し動揺したように言ったが、彼女は変わらない口調で言った。
「そうね、あの同窓会はもう十五年近く前のことだもの。昔のことよね。でも、私には、忘れられなかった。ただの同級生が、特別だったんだと気付いた。男だったんだと思ったら、ドキドキした。でも、普段会えなかったからね。成人式が終わって、またそれぞれの日常が始まって、地元を離れて別々の土地へ行けば、やっぱり、目の前にいる人に恋をしてしまうの。そんな年頃だったのよね。」
 遠く過ぎ去った時間をを優しく温かく見つめるように、彼女は言う。笑っているのにどこか泣きそうな顔に見えた。
「・・・俺は、忘れてたよ。」
 彼女の顔を見て言うことはできなかった。目の前の知らない男のウィスキーの琥珀色を見ながら、俺は嘘をついた。本当は少しも忘れていなかった。
 あの時、東京に進学した彼女が、すっかり垢抜けて、きれいになったと思うと同時に、平気で他の男と二人で出かけていることを知って、なんだか堪らなかった。自分はこの子の化粧をしていない顔も、今と違ってちっとも女らしくないショートカットの姿も、はっきり言ってださい体操着に身を包んだ姿も、大学受験に向けて一生懸命になっていた姿も見てきた。言うならば、彼女のほとんどを知ってきたつもりだった。それなのに、後から現れた知らない男が、彼女を独り占めするのかと思うと、悔しかったのだ。
 
でも、彼女の言っていることも、わかる。 
俺だって生身の男だ。目の前で笑いかけてくれる女の子に心を奪われる。きちんと触れて実感できる相手を求めたい。離れていても想い合えるほど、情熱が足りなかったと言われれば、そうかもしれない。
でも。でも、だ。成人したといってもまだまだ幼かった。それは、今まで身近すぎた相手に自分の素直な気持ちをぶつけることに臆病にもなっていた年頃だった。言い訳みたいだけど、本当のことを言って、以前のように冗談を言ったりふざけあったりできなくなることを恐れた気持ちはゼロじゃない。

彼女はきれいな横顔を私に見せたまま、穏やかな口調で続けた。
「そう、それから結局、その彼とお付き合いして、何年も付き合ったけど結局別れて、寂しさと懐かしさが相まって、あなたに連絡したのが、あの海に連れて行ってもらった日。でも、そのときにはあなたに素敵な彼女がいて。あなたの心に私はもういなかった。日付が変わる前に、家まで送り届けられて、それを痛いほど感じたわ。」
 再び沈黙が訪れる。こんな話は、一生しないだろうと思っていたのだ。今日、呼び出されたことも、この話をするためではないだろうと思っていた。あの幼かった日々は、二人がそれぞれ胸の奥に秘めて、一生抱えて死んでゆくものだと思っていた。
「私たち、うまくいく可能性がなかったわけじゃないのにね。何かのきっかけがあったり、タイミングが合ったりすれば、うまくいったかもしれないのにね。」
 そう言われて、この胸は痛かった。その痛みに気付かされる。あの同窓会の後、彼女を忘れようとして、そのままにしていた想いが、まだこの胸を彷徨っていたと思わなかった。


 
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