アマービリタ

もう構ってられないと思い、広い店内で騒がしく何かを取り付けたり置いたり作業している業者を横目にホール担当には店内の清掃を、シェフにはディナーの下ごしらえ等を進めるように指示をして自分も店内の音楽を昼から夜に変えるために、入り口から見て左側のスペースにあるレコードプレーヤーやら曲を流す機材でセッティングをすることにした。

今いる、キッチン前のカウンター席から入り口側に進みレコードプレーヤーに近づこうとした時、
「待て待て、夜のBGMに変えるならちょっと聴いてもらえないか。彼女の音色を」
と呼び止められた。

「音色を聴けって…ピアノなんかねぇだろ、いい加減に邪魔するのやめてくれ。」
「そろそろ準備が終わるんだ。あ、終わったみたいだな、律ちゃん。お願い出来るかな?あー選曲はこの前のパーティーで弾いてくれたあれがいいな」

とても楽しそうに、思い出しているのか少し目元を下げて微笑んでそう言う親父は、アルバイトとのやり取りですっかり置いてけぼりの彼女にそう言った。
彼女は彼女で、あれですね!わかりました!と意気込んで作業している場所に駆け寄った。

「だからピアノが…って、おいまさかアレって」
「ハハハ、言ったろう律ちゃんとの約束を果たしに来たと。私は彼女と約束をしたんだ。君をここでピアニスととして迎えようと。私は彼女の音色に惚れ込んでしまったんだ」

今まで被り物をしていた大きな物体から、その被り物を剥がすと、指紋一つない綺麗なグランドピアノが現れた。

「はあ、マジかよ…手の込んだことを。だいたいこんな無名な奴雇って客来るの?来ねぇだろう。客引きにもならねぇ」
「まあ、聴いてごらんなさい。」

ピアノの前の彼女は、作業者に礼を言いながら席に着くと目を閉じ深呼吸をして鍵盤に手を置いた。

様にはなってるな。だが、無名な素人をここで弾かせる時間の余裕はねぇんだよ。断るにしてもこの二人は手強そうだし、大人しく聴いてやるか。聴いてから断るのならあの二人も文句も言えないだろう。

目をゆっくり開き、最初の音を響かせた。

その瞬間、店内の雰囲気はガラッと変わりキッチンでホールでディナー準備の作業をしている奴らも、ピアノを運んで来た作業者も、親父も、そして俺も。目を耳をその音に奪われてしまった。

「リストの愛の夢、素敵な音色だろう。私がこの曲が好きでパーティーでどうしても、と頼んだんだ。そしたら、この通り。」
「誰なんだ、こいつ。」

無名とは思えなかった。
いくらホテルやレストランで弾いていたからと言って初めて引く場所で、ここまで響きを分析しているなんて。
音楽に詳しくない俺でもわかるくらい、繊細な音色。
響きを考えて作られた施設と違うため、そう言った施設とは違う響き方をするのを意識していると感じるくらい、音が響き過ぎたり篭ったりしていない。
透明、水が流れるみたいな滑らかさ。

「無名なのは仕方ない。彼女は無名でいることを選択したんだ、自分で。そうしないと生きていきにくいんだよ彼女は。」
「どう言う意味だよ、それ」

無名でいることを生きて行きやすくするために選んだとは、謎々かと思うくらいに意味がわからなかった。
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