呟き以上、物語未満
空色の君を夜に
 君を手放すなんて考えられるはずもなかった。
 それで、こんな窮屈な場所に君を連れてきたんだ。

 自分で飛び出した、退屈な世界に。
 やるべきことさえ投げ捨てた、それでも帰らないといけない場所に。

 あのまま旅をしていても良かったとよぎることがある。
 隣に君さえ居てくれたなら。
 君もまた、笑って受け入れてくれただろう。

 でもそれでは…きっと、自分は結局何者にもなれないのだ。

 捨てたからって何もなくならない。
 いつまでもそれは足元に落ちていて、俺のつま先が蹴飛ばすのを………転がる時を待っている。



 窓の外を見た。
 今日も南国の首都、ミスラは薄い空色を天井として、市場から遠く離れた王城の書斎までその喧騒を届けるほどに賑わっている。気温も高いが、この国の民であれば過ごしやすいと言ってのけるものだ。

 「………王子」

 市場の情景を瞼の裏に思い浮かべる。
 今の時期であれば収穫されたばかりの色とりどりの果物が籠に入れられて並んだり、この国では珍しい木工細工の為された器などの日用品が取引されていることであろう。

 「………王子?」

 南国の領土のほとんどが砂で覆われており、そもそも木々が少ないためにそれを加工するなどという文化が栄えるはずもない。建材に使用するとしても装飾として、が限度である。だが湿度が低いために日用品としては優秀で、金属製よりも手に馴染みやすいとか、気温に左右されない道具として好まれている………そう、彼女に聞いた。あまり彼は気を付けたことがなかったが、そういうものなのだなと愉快に思ったものだ。

 「………王子、聞いていますか?!」
 「ああ、聞いているよ」

 手元に視線を戻す。白い紙に黒いミミズのような何かが這っているようなものと、難しい顔をした補佐官と目が合う。眉間に皺を寄せて、こちらを睨みつけている様は「本当ですか、王子」と言葉もなく問いただしていた。

 一つ息を吐いて、相手の望む言葉をつむぐことにする。

 「俺が見る書類が増えるっていう、そういう話だっただろう?」
 「そのような雑な話はしておりません。これは、他国の、申請を、陛下に、上げる前に、確認する、大ッッ切なお仕事です!!!」
 「そんなの、俺の手元で判断していいのかな…?」

 苦笑気味に渡された書面に目を通そうと試みる。だが、どうにも字がきた………個性的過ぎて、読む気にもならない。中身を見ずに安易に扱うことができないと分かっていても、その理由だけで大いに却下案件ではある。
 読む気にならない理由はまだある。
 もう何時間も様々な各国の文字、字体、文体を読み解く作業をしており、頭がそのためだけに使われているのではないかと錯覚し始めて、時間間隔がなくなりつつある中で集中力が持続するはずもない。傍に置かれている茶もすっかり風味も香りもなくなって久しく、飲む気がなくなったとまでは言わないが物寂しさを感じさせた。

 「俺はそろそろ、息抜きが必要だと思うよ?たとえば新しいお茶とか」
 「分かりました。ご用意させますので、王子はここでお待ちください」
 「うん。あと、何度も言うけど俺はもう王子ではないからね。王弟殿下、ではあるけれど」

 指摘に、補佐官は途端に顔を赤らめて、気まずそうに下唇を噛みしめた。

 「…そちらは、失礼いたしました。ええ、そうでしたね、つい」
 「君はずいぶんと長く勤めてくれているから口うるさくは言いたくないし、俺は気にしていないけど、うるさい人も居るから一応ね」
 「はい、ありがとうございます………アーレス殿下」

 「ところで、彼女は元気なの?」
 補佐官が不意を突かれて、安堵しかかった顔を浮かべようとした表情の動きが急停止して、眼鏡の奥の目が鋭くなる。

 「分かってるとは思いますが………三か月お会いしない約束は」
 「話を聞くぐらいいいじゃない。確かにいろいろと無理を言ったし、俺も彼女も覚えることが多いからと三か月会わずに勉強する、という条件を飲んだよ。でも彼女の様子が気になるのは当然だろう?彼女が一緒に居るのを望んでくれたとはいえ、この王宮に連れてきたのは他でもない俺なんだ」

 補佐官はぐうの音もないとばかりに顔をひきつらせたが、アーレスの期待に満ちた視線に観念したとばかりに破顔した。

 「そうですね。お元気、ではいらっしゃいます」
 補佐官は、そこで一度息を吐く。
 「打てば鳴る、とは言い過ぎかもしれませんが、教えたことを素直に聞いてくださるのでとても助かります。分からないのに黙りこむ、ということもないです」
 「ずいぶんと引っかかる言い方をするね」
 「ええ、わざとですから」
 補佐官は一つ咳払いをして、言葉を続ける。

 「ただ…最近はたまに、少し疲れたようなお顔をなさってますね」
 「へぇ?寝付けないとか?」
 「はい。どうやら眠りが浅いようで…少し寝てはすぐ目を覚ましてしまわれるようです。環境が変わったこともあるでしょうから、こればかりは慣れが必要かもしれません」
 「そうだね…何せ、この国は暑いから…そっかぁ…」
 アーレスがどうしたものかと思案するように、背もたれにもたれかかりながら顎に手を添えて小さく唸った。
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