どきどきするのはしかたない

何の遠慮もしなかった。
夜中である事も忘れて玄関を飛び出し、隣のチャイムを連打した。

ピンポン、ピンポン、ピンポン…。

「七草さん。七草さん」

ドアを叩いた。

カ、チャ。

「あー、煩い。まあ、来るとは思ったけどな…」

「七草さん、さ、七草さん、聞いてない…退職って…」

「あー、まー、入るか?」

…。

「躊躇うな、このままじゃ煩いからだ」

「ゔ。…はい、…お邪魔します」


何だか、心なしか物が出てる感じ…。

「どうしてですか?退職なんて…私が、散々振り回して課長に戻ったからですか?」

「まあ、座れ。…ほら」

…缶珈琲。

「…これ」

「うん、引っ越すから」

「えっ、引っ越しも?!聞いてない」

「フ…落ち着け。ここのところ、ずっと忙しかったんだ。会社の事やらでな。あのなー、さっきから、まるで退職も引っ越しも、愛徳のせいみたいに言ってるけど。それ、勘違いだから」

「え゙っ?」

「えって。フ。自惚れんなよ?退職は俺がSEとして、今の職場では、ちょっとつまらないから、そっちの専門職になるんだ。
で、引っ越しは、まあ、引っ越しだ。解ったか?」

「あ、でも、…そんな…そうするなら言ってくれてもいいじゃないですか…」

「言ってもしようがない。相談する訳でも無いんだ。何だ…。課長が居るのに、俺も欲しいのか?」

…。

「…おい、黙るなよ。ドキッとさせんな…」

「だって、こんなの…寂しいから…」

「何言ってる。…はぁ、馬鹿か…そんな事言ってるから…」

「ごめんなさい。解ってます」

「…うん」

…。

「俺だって寂しいんだ…なんてな」

「七草さん…」

抱き着いた。

「あ、おい、何して…」

「…誤解しないでください。これはお別れのハグです」

「…そうか。じゃあ、…俺も」

抱きしめた身体を離されて軽く唇が触れた。

「これは挨拶のチューだ」

七草さん…。これは怒れないか…。

「あ、俺、501だから。宜しく、お隣りさん」

……え。は?

「えっ。5、501って。どこの?…え、お隣さん?……ここの?」

「ん?うん。愛徳の左隣の部屋だよ?」

「えー?!」

「フ、ハハハッ。知ってたか?501はずっと空き部屋だっただろ。
新しいところ、最初は今より給料下がるんだ、多分ボーナスも最初は無理だ。だから様子見の節約。それに、誰かと暮らさないなら…一人なら充分だろ、あの部屋で。
あー、それに、愛徳が課長に戻ったからって、簡単に俺が終わらせる訳が無いだろ?また、あの手この手で愛徳の心、揺らさないとな。それには、つかず離れず、隣が一番。
今だって、愛徳の心はどうなんだか…。完全に信じきっているとは思えないけど?」

「ちょっ…、何言って…。今度はちゃんと引っ越しの挨拶に来てくださいよね…」

「フ、何言ってる。今、挨拶のチューしただろ。足りなけりゃもっとするけど?
それに、前は俺の方が先に住んでました。そっちが挨拶に来ないで無礼だったんだ」

げっ、そうだったんだ。薮蛇だったのね、挨拶の話は…。
課長からメールがあったからこうして部屋に来たけど。
掛けたままの袋は、多分、いつもと違うって、異変を感じさせて、この部屋を訪ねさせるつもりだったんじゃないのかな。それだと出来過ぎてるかな。
…考え過ぎ?
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