屋上のあいつ
「コォォオオ!」
突然押された孝樹は、悲鳴を上げながらもそのまま勢いで残りの一段を登り切ってしまった。その背後で待ってましたと言わんばかりに、ふきだす升田と俺。
「ちょおおおお! お前らぁ!!」
危ねえだろ!と軽く飛び跳ねながらも主張する孝樹に、ありったけの笑い声をあびせかける。ちょっと待って、苦しい、苦しい――……おなかが痛いを通り越して、背中が痛い。もう、本当、こいつらといると笑いが絶えないんだから――……。
「ヒイ、ヒイ……っはー、疲れたぁ……」
やっと笑いの波が引いたのか、「あー」とおっさんくさい声を出す升田。
「疲れたやないやろ!」
すっかりはめられた孝樹は、プイとそっぽを向くふりをした。それにかぶせて、俺もすっかり痛くなった背中をさすりながら、「あー」とおっさん声をだす。たんがのどに絡んで、少し咳き込んだ。
「あー、笑った……で、なんかおる? 孝樹」
そろそろ本題に入んなきゃ、頭を切り替えそう聞くと、孝樹は「そういえば」という風にきょろきょろと屋上を見渡した。
「何も、おらんよ」
「本当?」
「うん」
俺は残りの一段をあがった。とたん、もくもくと白く工場の煙があがる青い空と、貯水タンクと、そしてその上に、一週間前となんら変わらぬ姿で、彼が座っているのが目に飛び込んできた。足をぶらぶらさせ、じっと俺たちを(俺を?)見降ろしている。短い黒髪に、広めの肩幅。俺よりは筋肉がありそうだ。それなりに整った顔立ちをしていたが、そのまなざしは冷たい。
「わ、本当、何もいねえ」
横で升田の声がする。俺は升田を見た。俺と同じ方向を見ている。彼の目にも、あの貯水タンクはうつっているはずだ。
「俊弥、何か見える?」
孝樹が、問う。彼もまた、升田と同じ方向を向いている。
「あっこ」
俺はすっと指を上げ、貯水タンクの上をさした。二人の視線が俺に集まる。
「……っとか言ったらどうする?」
「なんだよ!」
アハハ、と笑って指を下ろすと、二人は面白くないという風に脱力した。お前ら、本当に見えてないんだな? ちょっと、自分の表情がこわばるのが、分かる。今言ったこと、本当だぞ。
やはりあの少年は正真正銘幽霊なのだ。心の片隅にあった、「もしかしたら」という思いが氷解していく。驚きは意外になく、やはりという気持ちのほうが強かった。二人には見えていない、俺だけに見えるもの。きっと、みんなの前では何も見えないフリでもしといたほうが、無難だな。妙に騒いで、皆見にきたら、何か悪いことでも起こるかもしれないし。幽霊に襲われたときの対処法って、よく分かんないし。
「この前何処で見たん?」
ふと孝樹が、俺の方を見た。
「今言ったとこ。貯水タンクの上、座っとった」
なるべく自然にふるまおうと、孝樹の目を見てはっきり答える。すると彼は眉間に軽くしわを寄せて、
「お前頭おかしいんじゃね?」
と首をかしげてきた。
「うるせえ、お前よりはましだわ」
俺と孝樹が言い争っていると、升田は一人、貯水タンクのほうへと歩き出した。
「升田! 行く気?」
その動きを見て、言い争うことをやめ、孝樹が信じられないという風にさけぶと、升田はちらりと振り返り、にやっと笑う。
「孝樹、怖いんなら残っといていいぞ。な、俊弥」
「おう」
俺はそう言って、升田の横へと並んで歩き出した。歩調が、少し速くなっていく。上は、見ない。背後から孝樹も来る音がしたが、俺は気にもならなかった。貯水タンクの真下まで来て、ゴクリとつばを飲み込む。足元の真っ黒に汚れた排水溝に、一本つぶれたタバコが紛れているのが目に入った。そういえば、だれか吸っているという噂があったな――……と、今はそれどころじゃない。顔を、上げるか。
「なーんもねぇなあ」
のんびりとした升田の声が響く。何も無いだと? 少なくともお前らの目の前に、貯水タンクはあるだろう。そして俺には――……。
よし。
心を決め、まばたきと同時にすっと顔を上げた。
「ほんと、何にもなかったな」
口ではそう言った。しかし誰かと対面していたら、きっと嘘をついていることがばればれだっただろう。視線をあげた瞬間、幽霊とばっちり目が合ってしまったのだ。
「おー、今日工場の煙まっすぐあがっとおなあ」
後ろからのんびりとした孝樹の声が上がり、ペタペタと上靴が乾いた音をたてる。返事、してやんなきゃ。「おー、本当や」とか。けれど、俺の視線は幽霊に釘付けになっており、見上げたままの姿勢で完全に固まっていた。
大きくなってから見えるようになることって、あるんだ。
つんつんと腕がつつかれ、はっとして我に返った。横を向くと、升田がにやけ顔で立っていた。孝樹の姿が無い。周囲を見回すと、タンクの裏側にちらりと足が見えた。升田は帰ろう、とジェスチャーで言い、足音を殺してそろそろと走り出す。その後を追うか追わないか、一瞬迷った。本物の幽霊がいる。孝樹を残していって大丈夫だろうか?
もう一回、貯水タンクの上を見上げた。少年に、動く気配はない。
ま、見えてないんだし、いいよな。
にやっと笑い、俺も足音を殺して升田の後を追う。半分ぐらい戻ったところで、背中に孝樹の怒声がふりかかってきた。
突然押された孝樹は、悲鳴を上げながらもそのまま勢いで残りの一段を登り切ってしまった。その背後で待ってましたと言わんばかりに、ふきだす升田と俺。
「ちょおおおお! お前らぁ!!」
危ねえだろ!と軽く飛び跳ねながらも主張する孝樹に、ありったけの笑い声をあびせかける。ちょっと待って、苦しい、苦しい――……おなかが痛いを通り越して、背中が痛い。もう、本当、こいつらといると笑いが絶えないんだから――……。
「ヒイ、ヒイ……っはー、疲れたぁ……」
やっと笑いの波が引いたのか、「あー」とおっさんくさい声を出す升田。
「疲れたやないやろ!」
すっかりはめられた孝樹は、プイとそっぽを向くふりをした。それにかぶせて、俺もすっかり痛くなった背中をさすりながら、「あー」とおっさん声をだす。たんがのどに絡んで、少し咳き込んだ。
「あー、笑った……で、なんかおる? 孝樹」
そろそろ本題に入んなきゃ、頭を切り替えそう聞くと、孝樹は「そういえば」という風にきょろきょろと屋上を見渡した。
「何も、おらんよ」
「本当?」
「うん」
俺は残りの一段をあがった。とたん、もくもくと白く工場の煙があがる青い空と、貯水タンクと、そしてその上に、一週間前となんら変わらぬ姿で、彼が座っているのが目に飛び込んできた。足をぶらぶらさせ、じっと俺たちを(俺を?)見降ろしている。短い黒髪に、広めの肩幅。俺よりは筋肉がありそうだ。それなりに整った顔立ちをしていたが、そのまなざしは冷たい。
「わ、本当、何もいねえ」
横で升田の声がする。俺は升田を見た。俺と同じ方向を見ている。彼の目にも、あの貯水タンクはうつっているはずだ。
「俊弥、何か見える?」
孝樹が、問う。彼もまた、升田と同じ方向を向いている。
「あっこ」
俺はすっと指を上げ、貯水タンクの上をさした。二人の視線が俺に集まる。
「……っとか言ったらどうする?」
「なんだよ!」
アハハ、と笑って指を下ろすと、二人は面白くないという風に脱力した。お前ら、本当に見えてないんだな? ちょっと、自分の表情がこわばるのが、分かる。今言ったこと、本当だぞ。
やはりあの少年は正真正銘幽霊なのだ。心の片隅にあった、「もしかしたら」という思いが氷解していく。驚きは意外になく、やはりという気持ちのほうが強かった。二人には見えていない、俺だけに見えるもの。きっと、みんなの前では何も見えないフリでもしといたほうが、無難だな。妙に騒いで、皆見にきたら、何か悪いことでも起こるかもしれないし。幽霊に襲われたときの対処法って、よく分かんないし。
「この前何処で見たん?」
ふと孝樹が、俺の方を見た。
「今言ったとこ。貯水タンクの上、座っとった」
なるべく自然にふるまおうと、孝樹の目を見てはっきり答える。すると彼は眉間に軽くしわを寄せて、
「お前頭おかしいんじゃね?」
と首をかしげてきた。
「うるせえ、お前よりはましだわ」
俺と孝樹が言い争っていると、升田は一人、貯水タンクのほうへと歩き出した。
「升田! 行く気?」
その動きを見て、言い争うことをやめ、孝樹が信じられないという風にさけぶと、升田はちらりと振り返り、にやっと笑う。
「孝樹、怖いんなら残っといていいぞ。な、俊弥」
「おう」
俺はそう言って、升田の横へと並んで歩き出した。歩調が、少し速くなっていく。上は、見ない。背後から孝樹も来る音がしたが、俺は気にもならなかった。貯水タンクの真下まで来て、ゴクリとつばを飲み込む。足元の真っ黒に汚れた排水溝に、一本つぶれたタバコが紛れているのが目に入った。そういえば、だれか吸っているという噂があったな――……と、今はそれどころじゃない。顔を、上げるか。
「なーんもねぇなあ」
のんびりとした升田の声が響く。何も無いだと? 少なくともお前らの目の前に、貯水タンクはあるだろう。そして俺には――……。
よし。
心を決め、まばたきと同時にすっと顔を上げた。
「ほんと、何にもなかったな」
口ではそう言った。しかし誰かと対面していたら、きっと嘘をついていることがばればれだっただろう。視線をあげた瞬間、幽霊とばっちり目が合ってしまったのだ。
「おー、今日工場の煙まっすぐあがっとおなあ」
後ろからのんびりとした孝樹の声が上がり、ペタペタと上靴が乾いた音をたてる。返事、してやんなきゃ。「おー、本当や」とか。けれど、俺の視線は幽霊に釘付けになっており、見上げたままの姿勢で完全に固まっていた。
大きくなってから見えるようになることって、あるんだ。
つんつんと腕がつつかれ、はっとして我に返った。横を向くと、升田がにやけ顔で立っていた。孝樹の姿が無い。周囲を見回すと、タンクの裏側にちらりと足が見えた。升田は帰ろう、とジェスチャーで言い、足音を殺してそろそろと走り出す。その後を追うか追わないか、一瞬迷った。本物の幽霊がいる。孝樹を残していって大丈夫だろうか?
もう一回、貯水タンクの上を見上げた。少年に、動く気配はない。
ま、見えてないんだし、いいよな。
にやっと笑い、俺も足音を殺して升田の後を追う。半分ぐらい戻ったところで、背中に孝樹の怒声がふりかかってきた。