アレキサンドライトの姫君
頑なに返事もせず視線も向けようとしないエーデルに、

「怒っているのか? 私が朝方まであのような……」

ディルクは困ったような口調で語尾を濁らせた。
怒っている?
そう、怒っているのだ。
ただそれが何に対してなのか、が分からない。
嫌だと言ったのに朝方まで抱かれ続けたことに対してのそれなのか、それとも、先ほどのイルザ女官長の科白に対してのものなのか。
昨夜彼との情事の最中に、彼があまりにも手馴れていることに気づいていた。だから、自分以外の女性を知っているのだと心のどこかで悟った。
しかし、それが女官長の手によるものだったとは…。知りたくもなかった事実に、怒りにも嫉妬にも似た感情が沸き起こりそれの矛先をどこに向けたらいいのかも分からない。
僅かな抵抗として、こうして無視することくらいしか思いつかず、エーデルは無意味に教本を見つめ続けていた。不意に視界がぼやけて、自分が泣いていることに気づく。

「エーデル?」

握りしめていた拳に雫が落ちると、それに気づいたディルクが焦ったように顎を掬い上げて強引に顔を上向かせた。

「すまない」

それでも尚、視線を合わせず瞳を伏せたエーデルは思わずその手を振り払っていた。

「離してください」

椅子から立ち上がり、ディルクから逃れるように窓辺へと歩みを進め、ただの暗闇と化した庭園を窓越しに見つめた。
昨夜のことを思い返せば、自分がどれだけの痴態を晒したのか…その恥ずかしい記憶が甦って顔を合わすことが出来ないし、
イルザとディルクの関係を考えれば、嫉妬して顔を見たくないと思ってしまう。
昨夜、ディルクは『もし貴女の身体が既に他の男を知っていたなら、私は嫉妬で狂ってしまっていただろうな』と言った。
それはエーデルも同じなのだ。
無理なことだというのは充分すぎるほど承知している。
ディルクとは立場も性別も違う。
処女を守り抜いて結婚初夜にこそ捧げるのが美学とされる女性とは違い、男性の童貞はどれだけ早く捨てられたかを武勇伝として語られるのをエーデルは知っている。
貞操観念の強い乳母に煩いほど言い聞かされて育ったから。
ーーー分かっていても、それでも妬いてしまうのは、愛しているから。

「イルザ女官長が…話があると仰っていましたよね。早くお部屋に戻られたらいかがですか」
「エーデル…」
< 34 / 50 >

この作品をシェア

pagetop