アレキサンドライトの姫君
呼び止める声と共にすぐに追いかけてくる足音を振り払うように、迷路のような宮殿をあてもなく走り続けた。
下肢にも昨夜の余韻の倦怠感があれほど残っていたというのに、自分のどこにこんな力があったのか、とにかく夢中で走ったためそれすら忘れていた。

「あ…!」

途中で靴が脱げてしまったが、拾う猶予もない。でも、踵の高い靴は走りづらく大理石の廊下に靴音が響き過ぎて居場所が分かってしまうから、これ幸いとばかりにそのまま走り続けた。
追いかけてくる気配も消えたところでようやく立ち止まり、エーデルは深く息を吐いた。
人目を避けるようにしながら闇雲に駆けたせいもあり、ただでさえ間取りの全く分からない広大な宮殿内のどこにいるのかがさっぱり分からない。
柱の陰に身を潜ませて息を整えようと胸に手を当てて深呼吸をする。
幸いなことに、宮殿内は既に光量が落とされ人気も殆どなかった。
明日は国王主催の夜会。
早朝から多くの者が準備に取り掛かるため今夜はそれに備えて早目に休んでいるのかもしれない。
それはエーデルにとっては好都合だったが、このままでは自分の部屋にも帰れそうにない。
ミーナが見つけに来てくれるまでここで待つのが最良なのか…。
柱に凭れ掛かりながら、窓から差し込む月光に淡く照らされた天井画の騙し絵をぼんやりと見つめた。
なんて軽率なことをしてしまったのかと後悔しながらも、少し彼から離れて頭を冷やしたかった。
嫉妬とか羞恥とか怒りとか…醜い感情に捉われて大人気ない言動を彼に向けてしまったこと。
彼に軽く触れられただけで込み上げてくる甘い疼きのような感覚。
自分を持て余すような、こんな複雑な感情を抱えたまま夜会を迎えるなんて出来ない。
上手く消化するにはどうしたらいいのか、と考えたところで、聖堂に行こうと思いついた。
懺悔し、心静かに自らの身の置き所を神に問いかけてみたかった。
外に出れば聖堂の場所は分かるはず…ではあったが、裸足ということに気づいて敢え無く断念する。
再びどうしようかと思案し出すと、不意に横から小さな人影が落ちる。

「アレキサンドライトの姫、ですか?」
「…え?」
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