クラウンプリンセスの家庭教師
カイの変化
 トリスが氷の離宮に単身赴いている事を知らされているものは少ない。表向きは、妹の暮らす聖堂を訪ねる事になっており、影武者として、トリスと似た背格好の女官が選ばれた。
 カイも、陽動として、影武者の方につき従っていた。

 しかし、そもそもカイはこのやり方には反対だった。トリスは、己の身を守るだけの強さを身につけてはいるが、数に勝った場合にはその限りでは無いはずだ。せめて護衛をつけるよう進言したが、それでは陽動にならないと受け入れてもらえなかった。

 氷の離宮にも、前女王を守る兵士はいるが、万が一はありえるのだ。国王には、少人数精鋭の親衛隊がいたが、即位していないトリスにはそれが無い。
 カイは、トリスから離れている事。彼女が一人でいる事が不安で仕方なかった。胸が苦しい。こんな感情は今まで持った事が無かった。
 おかしい。そもそも、自分は王家に復讐する為にここへ来た。トリスに「何か」が起こったとして、それはむしろ狙い通りではないのかと。
 起こりえる状況をいくつか想定する。彼女の命が狙われる事はあるだろうか。可能性が無くはないが、彼女はあくまで次期王位継承者であって、まだ王では無い。仮に彼女を殺したとして、利益がある者は誰だろうか。彼女が死ねば、彼女の妹がクラウンプリンセスになるだろうが、既に母親も無く、後ろ盾になる貴族も無い。あったとして、グリチーネ家と互するだけの家があるだろうか。グリチーネ家としては、彼女に王位を継いでもらう必要がある。殺す必要は無い。

 可能性があるとするならば。……彼女に対して日頃剣呑な視線を送る何人かの男たちの顔が浮かぶ。

 ヴァルターは、一見紳士然としていて、いかにも女に好かれそうな優男だった。しかもトリスにとっては幼なじみで兄のような存在でもあるらしい。本人も馴れ馴れしくトリスに触れたりするが、カイから見て、トリスはそれを嫌がっているように見えた。ヴァルターの気軽さに対して、トリスはどこか壁を作っていた。しかし当のヴァルターの方はそれを気にしていない。意識しすぎてまともに向きあえていないだけだと思っているような節がある。
 カイに対して、どことなく対抗意識を持っているような振る舞いも見て取れた。

 図書室で絡んできたガイナも、時折睨めつけるようにトリスを見ている。手負いの獣のような姿を、トリスの周辺で見ることがあった。トリスを一人にしなければ、近寄って来る事はないようだったが、だからこそ、常に目配せしておく必要があった。

 氷の離宮の兵士も油断がならない。前女王の信任厚いもの達ではあるが、誰かの密偵が紛れ込んでいないとも限らない。

 しかし、ここでカイが氷の離宮へ向かってしまっては、陽動作戦が意味を成さない。

 カイは、考えまいとしていたもう一つの不安について、考えを巡らせる。トリスは、即位前に逢いたい男がいるのかもしれない。着任以降、昼も夜も側にいたカイだったが、常にトリスと共にあったわけではない。カイの知らないところで男を通わせていたかもしれないという不安に、心は一層ざわつき、駆け出したくなる衝動を必死に抑えた。

 認めたく無い事ではあったが、カイの生きる意味は変化しつつあった。トリスを見続けたい。女王となり、国を治める姿を。
 しかし、その横に、伴侶として並び立つ男を見ることができるだろうか。隠されているトリスの柔らかな部分を暴き、自分ではない誰かが、奥深いところまで繋がるのかと思うと我慢がならなかった。
 自分が、これほどまでに誰かに惹かれ、焦がれる事など予想していなかった。父の呪い。『復讐』が、薄いメッキのように剥がれ落ちていくように、生身の自分は、トリスを求めてやまない。

 いっそ、彼女を攫って、どこか遠くへ逐電しようかとも考えた。しかし、それは、彼女を王位から遠ざける事でもある。彼女の生きる目的、意味を、奪う事など、できるはずが無い。「王であること」は既に彼女の一部であり、分けて考える事はできそうになかった。

 じりじりと、夜が深くなっていく。月の無い夜。外には闇が広がるばかりで、同じ空の下にトリスがいるとは到底思えなかった。
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