クラウンプリンセスの家庭教師
ヴァルターの策略
 トリスは、気づくと、見知らぬ寝室に寝かされていた。氷の離宮を早朝にたち、こっそりと宮廷に戻ったはずだったが、予定より早く戻り過ぎてしまい、影武者達が戻るまで、身を隠そうと、誰にも気づかれないように、自室に戻ったはずだった。馬を早くかけさせて、少し疲れて、水差しの水を飲んだ後の……記憶が無い。頭がひどく重いのは、何か薬を盛られたせいか……。
 あわてて着衣を確かめたが、特に変わった様子は無い。旅支度を解く前の埃っぽい服のままだった。調度から見るに、宮廷のどこかの部屋ではないようだが、趣味のよさから、誰か貴族の私邸か……だとすると、どうやってここまで運ばれたのだろう。
 常に身につけている短剣が無い事から、自分に対する害意を持った人間の仕業だという事がわかる。今、部屋には誰もいないが、たった一つのドアは鍵がかかているに違いない。調度は普通だが、窓の無い部屋は、そもそもが監禁を意図して作られているようにも思える。
 部屋の中の物から、できる限り状況を把握しようと試みたが、おとなしく、犯人の到来を待つことにした。このまま餓死させる気が無いのであれば、誰かが姿を表すだろう。……そして、程なく、犯人が姿を表した。

「……ああ、お前か、お前かガイナのどちらかだろうと思ったよ」
 食事を持って現れたのはヴァルターだった。こいつはいつも食べ物と一緒に現れるな。餌付けをしているつもりなのか。と、トリスは冷ややかに笑った。
 ガイナと同じように思われていた事に憤慨したのか、不機嫌そうにヴァルターが言った。
「ずいぶんな言われようだなあ、ひどいじゃないか、トリス」
 帯剣しているところが剣呑ではあったが、奪える武器があるのは悪い事では無さそうだ。
「どうせお前もガイナも目的は同じだ、私の腹に、自分の種を植えたいんだろう?」
 言葉を選ぶ必要の無い相手は、ある意味楽だが、会話をしている楽しみは無いな、と、トリスは呆れた。
「そんな無粋な事を言うものではないよ、トリス。 だいたい、僕とガイナでは全く違うじゃないか」
「何がだ? 私の母と寝たか、そうでないかの違いか?」
 なぜそれを! と、ヴァルターが驚く。……こいつ、気づいていないと思ったのか。ああ、それで、いつまでも、幼なじみの初恋の君ぶっていたのか。どうりで。これまでのヴァルターの振る舞いに、トリスは納得した。これでも一応カイが来るまでは教えを乞う立場であったのだが、どうもこの男は自分に対してとことん考えが甘いようだ。
「母親の愛人とどうこうなるのはごめん被りたいな、できれば」
 想定していた睦言が告げなくなったせいか、押し黙るヴァルターに、もしかしたら、このままドアを開けて、普通に出ていけるのではないかと思ったが、さすがにそこまでヴァルターは愚かでは無かった。
「馬鹿だなあ、妬いているのかい?」
「は?」
 今度はトリスの方が二の句が告げなくなった。どうしようも無い。こいつは本当にダメの、ダメの、ダメダメだ。幼なじみのよしみというか、単に面倒で側に置いたままにしておいた事を、トリスは激しく後悔した。
「幼い頃はあんなに僕を慕ってくれたじゃないか」
「お前と母がどうにかなる前の話だろう、それは」
「僕も辛い立場なんだよ、王妃様にどうしてもと乞われたら、拒めないことくらいわかるだろう?」
「お前と倫理観について話合う気は毛頭ない、そこをどいてくれ、帰る」
「僕の欲しいものをくれたらね」
 ニヤニヤ笑うヴァルターは、こんなに下品な顔の男だったろうか。あまり見ないようにしていたから、気がつかなかったのかもしれない。
「何が欲しい? 青あざか? 切り傷か? 」
 次の動きに身構える、が、うまく力が入らない。あー、しまった、薬にはこういう作用もあったのか、ヴァルターが来るまでに準備運動でもしておけばよかったと後悔したが、遅かった。
 寝台に押し倒されて、両腕を掴まれた。馬乗りになられているので、はねのけることもできない。
「一応、君に体術を教えたのは僕だからねぇ、僕にかなうと思っていた? 」
 カイが来る前だったらかなわなかったかもしれないが、よき師匠を得て、技には磨きをかけていた。いつもであれば、既にヴァルターは敵ではなかったが、そのあたりも見越しての薬らしい。
「あー、あと、もう一つ、僕、切り札があるんだよ、何だと思う? 」
 耳元で囁かれ、背筋に悪寒が走る。
「切り札は、簡単に明かさない方がよいと思うが? 」
 そう言って、答えないヴァルターでは無かった。
「カイさ、君の家庭教師」
「馬鹿な。そんなはずは」
「君が僕の手の内にあると言ったら、やすやすと捕まってくれたよ」
 あーーーーーー、そういう事か。トリスは納得した。なるほど。私が、カイを人質にとられたら、言うことを聞くだろうと、そういう事か。
「さあ、わかったら、大人しくして? ……大丈夫、優しく、する、から」
 美男子も、こう言う時はこんな珍妙な顔になるのか、と、しみじみトリスは思いながら、体の自由がきかない状況での恐怖よりも、カイが近くにいる安心感を感じた。
 ガチャリ、と、扉が開いて、カイが現れた。
「はい、そこまでです」
 手に鍵の束を持っているという事は、家令を脅すか奪うかしたらしい。
 驚いて、ヴァルターが固まった。腕が緩んだ隙に、トリスは膝で、男性に対して尤も有効と思われる攻撃をした。
「ーーーーーーーッッッ!!!!!」
 声にならない叫びをあげて、ヴィクターがのたうち回る。
「先生、あなたがここに拉致されていると聞いてむしろ安心したよ」
 ゆっくりと体を起こし、寝台から逃げるようにして、壁を伝いながらドアの方へトリスが向かう。
「ご無事ですか? 殿下」
「貞操が、という事なら無事だよ、先生が来てくれなかったら危なかったけれど」
 ヴァルターは、人質をとったつもりで、最も心強い味方を連れてきてくれていたのだった。むしろ、カイが居なければと思うとぞっとする。今回はヴァルターの浅慮に感謝したかった。
「貴女がすでに手の内にあると聞いて……、お陰でお探しする手間がはぶけました」
 自分一人ではなく、カイと共にいるのがこれほどまでに心強いものなのかと、トリスは驚いていた。
「一旦引き上げて、兵を連れて出直すべきか、このままこいつを縛り上げるべきか、……どちらがいいと思う?」
「殿下の即位前に騒ぎを起こすのは得策ではありませんね」
「……では、こいつは縛り上げるとするか、ちなみにこの家には、どれくらい人がいた?」
「伏せ兵はおりませんでした、私を軟禁していた者達は既に拘束済みです」
「わかった、それでは、こいつだけ縛り上げて城へ連れて行こう、おっつけこちらには憲兵をまわす」
「さて、ヴィクター、お前に選択肢を与えよう。投獄され、裁判を受けるのと、最も遠い領地で蟄居するのと、どちらがいい?」
 裁判となれば、王妃との事も露見する事になるだろう、できれば大人しく遠くで余生を過ごして欲しかった。もっとも、王妃の失脚を恐れてグリチーネ家から口封じの刺客が来ないという保証は無いけれど。
「殿下、それはいくらなんでも」
「甘いだろうね、でもいいんだ、この男は、詰めは甘いけれど、保身に対してはとても鼻がきくと思っている。 護衛もつけよう。……返事は?」
 後々、母上に対して動かなくてはならない時にも、証人は必要だしな、と、トリスは心の中でつぶやいた。
 
< 12 / 24 >

この作品のキーワード

この作品をシェア

pagetop