クラウンプリンセスの家庭教師
クラウンプリンセス ベアトリクス・クリュザンテ
 王を補佐する執務と、帝王学他全般の学習。それが、トリスことベアトリクスの新しい毎日だった。

 執務と言っても、まだ彼女に決定権は無い。国民からの陳情を聞く。陳情書を読む。それらをしかるべき部署へ回すというもので、とにかくやたらと量が多い。中には次期国王と直接つなぎをとるチャンスとばかりに取り入ろうとする者もいて、時間はいくらあっても足りないような有り様であった。

「ベアトリクス様、またお食事をとられてませんね」

 陳情書が山積みされた執務室で、既にぬるくなったお茶の入ったカップを片手に、分厚い紙の束に目を通している王女に、机を挟んだ向かいに立つ『父王の』側近であるヴァルターが、軽食ののった盆を持って、心配そうに尋ねた。

「この調子ではすぐにお体を壊します。まず健康である事も、為政者の努めです」

 盆を置く場所を探るように机を見ながら、ヴァルターが続けた。

「……父のように病がちでは困る……と?」

 書類から視線を上げて、トリスはヴァルターを睨んだ。

「ああ、違った、どうせ病気になるなら、世継ぎを産んでからにしてくれ? とか?」

 イヤミと皮肉を込めた王女の答えにも、ヴァルターはひるまない。

「……トリス、どうしてそんな物言いをするようになってしまったの、少し前までは私を慕って、何でも言うことを聞いていてくれたのに」

 王の側近ではなく、幼馴染の兄のような存在である事を思い出させるように、気安い口調でヴァルターが言う。

 実際、トリスは彼にとてもなついていた。どこへ行くにもついていき、馬や剣術の師匠でもあった。ヴァルターの微笑みに、顔を赤らめてしまう時すらあったというのに。

「自分の立場をわきまえるようになっただけだ……それ、もらえるかな、食べるから。そして、あなたはこの部屋から出て行って、今すぐにだ」

 これ以上の会話を避ける為、トリスは一番簡単な方法をとった。言うことを聞き、食事をするという意志を示した。空腹ではあったのだ。女官を呼び、食事を用意させるのがおっくうだっただけで。

 やれやれ、と、肩をすくめて、ヴァルターは出て行った。彼は、トリスの変化を、少女特有の自意識過剰だと考えているようだった。

 クラウンプリンセスの最も近くにいる妙齢の独身男性として、ヴァルターは、とある層からの指示を受けている。彼はトリスの母親の一族の遠縁で、女王の夫となってもおかしくない身分だった。
 幼い頃から兄のように接してきた幼馴染でもある。彼はそういう期待をかけられている事を知っていたし、その期待に答える心の準備もあった。
 トリスは聡明ではあるが、異性に対しては奥手な様子であったし、これから名を連ねるであろう夫候補に対して身近にいた歴史は有利に働くだろうと。

 ヴァルターが出て行ったドアを一瞥し、トリスは軽いため息をついて、急いで軽食を平らげた。料理長の作る食事は冷めても美味だった。しかしゆっくりと味わう暇は無い。彼女はなるべく急いで、自分は有能な次期女王である事を周囲に印象付ける必要があった。早々に男子を産まされ、幼い王子の摂政に実権を握られる事は避けなくてはならない。彼女の祖母が、伯母が、かつての父を守る為に即位したという経緯は知っている。しかし、彼女らは決して暗愚な女王では無かった。むしろ病弱で、『生きていてさえくれればいい』とすら暗に言われていた父よりも有能であったのではないかと思える。女王達は、実務は分業し、王はその監視・監督ができるように体制を整えた。側近が力を持ちすぎないように。専門性の高い仕事はその専門家に裁量権をもたせるように。学校を整備し、利権が発生しないように、予算と、利益を見えるように財務の報告制度も整えた。しかし、いくら体制を整えたとしても、統括する王である父の健康状態が
悪化すると、変わりに決裁をする者がどうしても必要になってしまう。王に継ぐ立場であった母である王妃は、自分の夫の言い分よりも、自分の父の言い分に従う人だった。そして、女王の母ではなく、王の母になる事を、実はまだあきらめていない事をトリスは知っていた。どうしてそういう考えに至るのか、頭が痛かったが、自分は王妃であり、次代の王を生む存在であり、自分の腹から生まれたのであれば、子種は国王でもかまわないと考えているようだった。
 トリスは、母が夫以外の男と通じている事を知ってしまった。何人もの男を通わせている事を。そして、ヴァルターがその一人である事も。

 あれは、トリスがクラウンプリンセスとして立つ事が正式に決まる前の事。ある程度覚悟をしなくてはいけないなと思いつつも、弟が生まれれば余計な重圧を受ける事なく、図書室の番人か、外交特使にでもなって、(王族としての義務から逃れられないとしても)それなりに気ままな人生をすごせるのに。などと考えていた頃。母の侍女に呼ばれ、部屋に行くと、部屋の主の姿が無かった。奥の、寝室の方からかすかに聞こえてくる声に耳をそばだてて、近づいたその時。母の寝所で、一糸まとわぬ姿の王妃が、同じく裸の男にまたがって嬌声をあげていた。いつもは結い上げられ、整えている長い髪が波打ち、声とともに揺れている。ちらりと見えただけではあったが、裸の男は父ではなかった。
 逃げたい。と、トリスは身を翻そうとしたが、母と視線が合ってしまった。母は驚くでもなく、男の顎をあげ、みせつけるように唇をむさぼった。今度は男の横顔がはっきり見えた。……それは、ヴァルターだった。

 娘に情事を目撃された事を恥じるのではなく、娘が淡い恋心を抱いているであろう男を奪った優越感に浸る姿がそこにはあった。あれは「母親」では無かった。自分の魅力を誇示し、勝ち誇った女だった。

 トリスは、こそこそとその場を逃げ出した。いたたまれなかった。父と母は他の貴族に比べて、仲睦まじいという様子では無かったが、王と王妃として振舞っている、と、その日までは思っていた。しかし、そうではなかった。好意を持っていた男性が母と通じていた事よりも、自分が父の娘では無いかもしれない事を恐れた。全身の血を流したい衝動にかられた。尊敬する祖母や伯母の係累では無いのだと、疑いたくなかった。しかしそれを確かめる術はトリスには無かった。

 母を醜いと思いながらも、血縁でありたい父達ではなくて、確実に血が繋がっているのは母だけなのだと思うと、自分はこの世にたった一人なのではないかと、トリスは思った。
 ……だからこそ。
 自分に与えられたクラウンプリンセスの役割を、正しくまっとうして、女王になること。母の不義の子かもしれない。父の子ではないのかもしれないという思いが、より強く、トリスを支えていた。
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