記憶の中のヒツジはオオカミだったようです!



「ううん、むしろありがとう。あの場から連れ出してくれて」

 何度か深呼吸を続けると、ようやく呼吸が落ち着いてきた。あのまま、飲み終えるまでいたら、もっと酷い動悸に襲われて、空港に行くなんて出来ないほど精神的に消耗していただろう。
 
「お礼なんて言わないでくれよ。ここに誘ったのは俺だ。こんな所に寄らなければ、ヒナに嫌な思いをさせなかった」

 いまだ開かないエレベーターの扉を睨みつけながら、朔は顎を強張らせながら呟いた。
 雪乃が知っている朔は、男らしいという言葉とは無縁だった。
 いつだって背に隠れ、言い返すことも、喧嘩を売るみたいな行為もしない。
 寧ろ、昔なら何か言われて食ってかかるのは、雪乃の方だ。
 十年という月日は、二人を全く違うものへと変えたらしい。

「さあ、エレベーターが来たよ」

 誰も乗っていないエレベーターにほっとしながら乗り込んだが、扉が閉まりそうなところでまた開いて、カップルやベビーカーを押す母親、遅い昼食を取りにきたサラリーマンたちが入ってきて一気に込み合ってきた。

 自然と雪乃はエレベーターの奥へと引っ込み俯いた。

 動悸が激しくなり、嫌な汗が額に浮かんでくると、目の前に背中を向けた朔が立った。
 程よいスペースを残し、楽に立っていられる。

 記憶にあるのとは違う高い背と広い背中に守られ、激しい鼓動は治まりはじめたが代わりにほっとして、涙が頬を流れた。

 思わず朔の背中に額を触れさせると、僅かに強張たが、すぐに力が抜けて無言の優しさが伝わってくる。


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