徹生の部屋
「ゆくゆくは、結婚も視野に入れてのお付き合いしています」

私の声を遮りとんでもないことを言いだした彼を振り仰いだ瞬間、おでこに柔らかく温かなものが押しつけられて離れていく。

「こんな形で伝えることになってすまない。だが、俺は本気だ」

囁くようにして、柔らかな笑みを向けられた。

「……なんで、そんな」

なにを言われてなにが起きたのかを理性で整理する前に、心臓は痛くなるくらいの速さで鼓動を打つし、唇が触れた場所から熱が広がり、顔全体が火がついたように熱くなる。
固いはずの地面が、ゆらゆらと揺れているような感覚に襲われていた。

「そんな話は聞いていません! お義姉さまたちだってなにも言っていなかったわ」

棘のある物言いが、一瞬にして私の足を地に固定する。

「桃子叔母さんが先日言われたように、俺もいい大人です。いちいち交際相手がいることを、親や親戚に報告する必要はないと思いますが」

「だったら、寿美礼はどうなるのっ!?」

椅子を倒す勢いで立ち上がって発せられたヒステリックな叫びが周囲に広がり、打ち上げ開始前の高揚によるざわめきが一瞬止んだ。

名前を出された寿美礼さんを見やれば、怒りに燃える眼差しを、私でも徹生さんでも、叔母さんにでもなく、表情を消して控える楢橋さんに注いでいる。

「落ち着きなさい」

静かだけれど有無を言わせぬ圧を持った声がした。

「あなた、でも! このままでは私たちも……」

「いまは昔と違うんだよ。結婚などで縁を結ばなくとも、仕事で互いの利を証明すればいい。社にとってはそのほうが、情などよりもずっと確かなものが得られる。己の保身ばかりを追っていては、社員やその家族の生活を守ることなどできないのだから。――そうだろう? 徹生」

「ええ。そんなものに頼らなくても、ウチと手を結びたいと思わせてみせますよ」

徹生さんが挑戦的な目を向けたのは、寿美礼さんのお父さん。それを真正面から受け取り、肩を小さくすくめて「お手柔らかに頼むよ」と苦笑した。

場が収まるのを待っていたかのように、セレモニーの開始を知らせる花火が一発だけ、まだ藍色の空に打ち上げられる。
みんなが見守る中で空に咲いた大輪の花が散り終わると、徹生さんがもう一度私の腰に腕を回す。

「では、俺たちは、ふたりっきりでとっておきの場所で見るので失礼します。行こう、楓」

促され、この場に居残ることはもちろんできない。会釈に「失礼します」とだけどうにか添えて足を動かした。

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