花の刹那
学の高い男がいた。
香の兄、鷹成である。
先程も触れたように、この鷹成は、安房国一とまで称される知識人であった。
まだ16であるにも関わらず、である。
この頃の日本はまだ、学者を呼んで話を聞いたり、学んだりすることは少なく、
戦場でどれだけの武功を挙げられるかに重きを置いていたから、鷹成のような知識人への評価は、あまり高くなかった。
その上鷹成は武芸が苦手で、幼い頃は、一日中本を読んでいるという有り様だったので、父・頼成も、鷹成の将来を心配したことだろう。
が、だからといって、頼成は、嫡男・鷹成を無下に扱ったりはしなかった。
鷹成の思うままに書物を与え、好きなだけ学問に当たらせた。
それでいて、一日に4時間は、剣、弓、馬、柔術の稽古をするように決め、必ず守らせた。
佐野家の嫡男として、それに相応しい教育を行ったのである。
その甲斐あってか、幼い頃よりは随分武芸の腕も上がり、誰からも愛される好青年に育った。
なにより、齢を重ねるにつれ、この鷹成、政治の才能があることが分かってきた。
ほんの半年前には、鷹成の指揮で用水路を築かせ、ずいぶんと水の通りが良くなったという。
16とは思えぬ、見事な仕事っぷりである。
また、元服(成人すること)してからは、対馬守(つしまのかみ)鷹成と名乗った。
それから、鷹成は、「対馬(つしま)」あるいは「対州(たいしゅう)」というふうに呼ばれるようになった。
幼名については、詳しく分かっていない。
弦千代とする説があるが、確かな証拠は残っておらず、ただ、対馬守鷹成という名だけが残されている。
さて、鷹成の説明を長々と書いてしまったが、本題はこれからである。
父・頼成は、なにか政治関係で困ったことや変わったことがあれば、まず一番に、この対馬守に相談することにしていた。
それほどまでに、頼成は、息子の政治の才能を頼りにしていたのだろう。
来香丸のもとから佐野館に帰ってきて、香がきりに絞られている頃、鷹成は、自室で書を読んでいた。
そこへ、
「対州、よいか」
と呼ぶ声があった。
「父上。如何なされましたか」
「うむ。…前々より話しておった、例の件がな、ようやく決まっての」
「ああ…どなたになりましたか」
「北条の三男の、国増丸(こくぞうまる)様じゃ」
「は…それはまた…なんというか、随分と…上首尾に終わりましたことで………私はてっきり、北条の家来の元へ嫁ぐのだとばかり…」
さしもの鷹成も、困惑を隠せない。
「例の件」とは、香の嫁入りの話である。
現代の感覚からすれば、9歳で結婚などありえないことであるが、この時代、それはさして珍しいことでもなかった。
ただ香の場合は、今からすぐに嫁ぐわけではない。
前もって嫁ぎ先を決めておき、15か16になった頃に正式に嫁入りさせる、という、言わば許嫁を決めているだけに過ぎなかった。
それでも、やはり現代の感覚や倫理観とは大きく異なっている。
戦乱期において、恋愛結婚というのは、かなり少ない。
どころか、お見合いが行われることすらほとんどない。
名前しか知らない男のもとへ嫁がねばならない、という不安は、われわれ現代人が抱く結婚の輝かしい印象とは、ずいぶんかけ離れている。
百姓や町人ならまだしも、武家に生まれたおなごに、結婚の自由などあろうはずもない。
この時代のおなごの結婚など、所詮は政治の道具に過ぎなかったのだ。
さきほど、桐谷屋敷にて、鷹成は
「このふたりが結ばれることは、絶対にありえない」
と、心の中で言った。
それは、上のような、香には既に嫁ぎ先が決められつつある、という事情があったからなのである。
「うむ、まさか儂も、北条に貰うて頂けるとは思わなんだ。これで佐野家も安泰じゃ」
「…このこと、香には?」
「ああ…まだ言うておらぬ。その…香には、好いた相手がおるのであろう?」
「……気づいておられましたか」
「まあ、親じゃからのう。…それで、どう思う?」
「どう、とは?」
「香は、聞き入れてくれるかのう」
「ああ…しかとは言えませぬが、あれは分別を弁えております。御家のためであると分かれば、無用の駄々はこねますまい」
「然様か…しかし、いずれにせよ、可哀想なことをしておるのう、儂は」
「決して、そのようなことは」
とは言ったものの、鷹成とて、香を哀れに思う気持ちは否めない。
出来れば好いた者の所へ嫁がせてやりたいと思うし、たったひとりの可愛い妹を、北条などに渡したくない、とも思う。
けれど、政略結婚は武家のおなごの常であるし、小大名である佐野家は、こうして大家に縋るしか生き残る術はない。
そういう矛盾した思いに踏ん切りをつけることは、じつに難しいことだった。
(この兄は何もしてやれないが…せめて、このことを伝える役割だけでも担いたい。)
鷹成は、そう思った。
「…父上、香には、私の方から伝えましょうか」
「…よいのか?損な役回りになるぞ」
「香のつらさに比べれば、大したことはありませぬ。私も、香のために、なにかしてやりたいのです」
賴成は、すうと目を細めた。
「それは……いや、何でもない。されば、任せてもよいか」
「…? はい、お任せ下さい」
賴成は、「では、頼んだ」と言って、くるりと背を向けた。
「…あっ、父上!お待ちください!」
「ん?」
「あの…ひとつ、気になることがございまして。お尋ねしてもよろしゅうございますか」
「? うむ、良いぞ」
「昼間の軍議でのことですが…なにゆえ、宗次郎は、あのように責め立てられておったのですか」
「ーーー!」
「…いえ、もっとはっきりと申し上げます。佐野と桐谷の間に、なにがあったのですか」
鷹成は、あくまで静かに、しかし毅然と言い放った。
賴成は、少し考えるような顔をした。
(言うべきか。はたまた、知らぬ振りを通すか。
ーーあまり良い話ではない、出来れば知らずに育って欲しかったが……)
が、この息子はもう子どもではあるまい、と思い至り、
「気持ちのよい話ではないぞ。それでもよいか」
とだけ言った。
「もとより、承知の上です」
「ならば、話そう。されど、ひとつ約束して欲しい」
「はい」
「香にだけは、決して漏らすな」
「…?なにゆえに…?」
「聞けば分かる。今はただ、香にだけは言わぬと約束してくれ」
「わかりました。香には、言いませぬ」
「うむ。…あまり大声でいう話でもないゆえの、」
と言い訳がましく言うと、賴成は、後ろ手に障子を閉めた。
たん、という短い音が、俄かに緊張した響きを帯びた。
「…今からもう、20年以上前になるが、この佐野家で、跡継ぎ争いが起きての」
賴成は、静かに、語り始めた。