魅惑への助走
 「……全く! 葛城さんったら何てことしてくれるのかしら。うちの若手有望株を」


 表向きは物分かりのいい先輩を演じてくれた榊原先輩とは異なり。


 松平社長は感情的に、私の退職に関して異議を唱えてきた。


 「せっかく今まで経験を積んできたのに。貴重な体験をそうもたやすくリセットして、後悔しないの?」


 「社長、私は」


 「イギリスに行くですって? 葛城さんは夢を追いかけているからいいかもしれないけど、明美ちゃんは自分のキャリアを放棄して、葛城さんの夢に殉ずることができるとでも?」


 「一緒に夢を叶えたいんです」


 ……結局、私と社長との話し合いは平行線のまま。


 しかしこんな気持ちのまま、私に無理矢理仕事を任せておくわけにはいかないとして。


 退職希望は受理された。


 「ただ忘れないでいて。愛はいつか形を変えるかもしれないけど、仕事、自分の生きがいは一生続くものだから。いつかきっと、明美ちゃんにも分かる日が来る」


 「……愛は永遠です。自分の夢と引き換えにしても、運命を共にしたいと願う人にいつかは出会えるものです」


 クサい歌謡曲のワンフレーズのような言葉を、私は口にした。


 強がりでもないし、嘘なんかでは決してない。


 その時の私は、心底そう信じていた。


 信じようとしていた。
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