魅惑への助走
 引っ越し作業を一通り終え、異国での生活にもようやく慣れてきた五月下旬。


 この日も一人で留守番だったのだけど、暇なのでロンドンの街を散歩してみた。


 晩春のロンドン。


 街の真ん中を流れるテムズ川に、ビッグベンの鐘の音。


 ようやく、異国に来たのだと実感。


 日本から数千キロ離れた地での、新しい毎日。


 今日までほんと忙しくて、過去を振り返っている暇なんてなかった。


 だけどぼんやり川の流れを見つめていると、不安と期待に混ざって過去の後悔のようなものも波打ってくる。


 ……自分のわがままで、強引に仕事を辞めてしまった。


 今後の社の中心的存在として大切にしてくれた、社長や先輩の期待を裏切る形だったのは否めない。


 いくら愛こそが全てとはいえ、そこまで犠牲を払ってよかったものか。


 そしてその時。


 ふと……上杉くんの面影がよぎって焦った。


 数千キロ離れた、時差も六~七時間あるロンドンに私がいるなんて、上杉くんは夢にも思わないはず。


 思い出してはいけないと念ずるあまり、今まで過去を振り返ることはなかったのに、今急に。


 ……上杉くんはこうして私を思い出すことなんて、もうないかもしれない。
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