臆病者で何が悪い!
ここで、田崎さんに感情で負けたくない。
「なので、ご心配なく。では、お疲れ様でした――」
きちんと頭を下げて、その身体の横を通り過ぎた。大丈夫――。この人の前で、弱い姿なんて見せたくない。壊れそうなほど暴れ狂っている心臓を懸命になだめ、ぐらつきそうな足元を必死で支える。
「海外勤務、ずっと前から希望してたらしいよ。希望が叶っておめでとうって、生田に伝えておいて」
背後から田崎さんの声が聞こえた。でも、私は決して振り返らなかった。
「――僕はずっと、内野さんの気持ちが変わるまで、待っているから」
さっきまでとは全然違う、切羽詰まったような声。距離が離れて、届く声も小さくなったのに、その言葉は鮮明に聞こえる。田崎さんじゃなくて、生田の口からちゃんとききたい。そう思ったら一刻も早く生田の声が聴きたくなった。路地を曲がり、大通りに出る。帰宅する人たちの波に逆らうように立ち、スマホをバッグからひったくった。そして、生田の連絡先を表示させて思い出す。
――金曜の夜は、多分電話出来ないと思う。出張の最後の夜だから打ち上げになる。
手のひらにあるスマホを、そのままバッグにしまった。
落ち着けって。生田は私に「話がある」って言っていた。明日になれば、ちゃんと生田の口から聞けるんだから。しっかりしろ――!
無理に大きく息を吸う。そして、地下鉄の駅へと向かって歩き出した。
大丈夫。生田は、最初からちゃんと私に説明するつもりだったんだ。そのために、出張から帰ってすぐに私と会う約束をしたんだろう。
その生田の意思を尊重しないと。とにかく、他のことにわずらわされずに出張をちゃんと終えてほしい。
少しくらいは、いい彼女を演じないと。
私は、すぐにでも生田に飛びつきたい感情を懸命に堪えて、いい女を装った。そうやって、デキル彼女を演じることで、少しでも自分に自信を与えたかったのだ。
(飲み会終わって、今ホテルに戻って来た。今回は少人数の出張だったから、思いのほか盛り上がって少し飲み過ぎた。じゃあ、明日、約束の場所で)
生田からメールが来たのは、日付が変わった頃だった。
(お疲れ様でした。じゃあ、明日、待ってるね)
そう返信して、私もベッドにもぐりこんだ。
――と、もぐりこんだところで眠気がやって来てくれるわけでもなかった。一週間の疲れがあるはずなのに、頭だけは冴えわたって仕方がない。
生田が、ニューヨークに赴任――。
時期的に、この4月からだろうか。海外赴任の場合、もう少し前に辞令があるような気がするけれど、区切り目としては4月というのが自然だ。霞が関で働く国家公務員である以上、転勤なんてものは誰にでもあるわけで。驚くようなことでもない。生田だって、もう、いつそうなってもおかしくはなかった。そんなこと、よく分かっていたはずなのに。私は、そのことをすっかり忘れていた。それとも、忘れていたかったのだろうか。
生田と過ごす時間が、あまりに楽しくて。あまりに、夢のようで――。そんな時間がこのまま続いてくれと、無意識のうちに願っていたのかもしれない。おそらく2年、長ければ3年、離れて暮らすことになる。生田は、明日、私に何と言うつもりなんだろう。ただ、海外に行くことになったってだけかな。それとも……。
いろいろ想像して、余計に眠れなくなる。
遠距離恋愛、それも、海外。そんなこと、上手く行くのかな。会いたい時に、すぐに会いに行けない。行くのに時間もお金もかかる。時間と共に、心も離れて行くんじゃないのかな……。
こういう場合、どうしたって置いて行かれる方が辛いんだよね。生活している環境は何も変わらないのに、そこに生田だけがいない。これだけ毎日顔を合わせて、一緒にいて、そんな生活に慣れてしまった。初めて明るい光の下で生きているような気がしていた。突然すべての明かりが消えたようで。真っ暗闇に一人放り出された気分だ。
ねえ、寂しいよ――。
私は、こみあげて来た熱いものが零れてしまわないように、そっと目を閉じる。
泣いたりしたら、もっともっと落ち込んでしまいそうだから、泣きたくなんかない。