彼女の居場所 ~there is no sign 影も形もない~
「困ります!おやめください!」佐伯さんの声がしたと思ったら、勢いよく執務室のドアが開いた。

「蒼!」

いきなりハイヒールでワインレッドのワンピースを着たスタイルの良い美人が執務室につかつかと入って来て副社長に抱き付いた。

「会いたかったわ」

入って来た勢いのまま副社長の首の後ろに手を回してキス。

え?何?
何をしているの?
誰?

私は絨毯に座り込んだままそれを呆然と見ていた。

「やめろ」

副社長はすぐさまその美女を自分から引き剥がした。キスは一瞬だったけど、でもキス・・・してたよね。

「どうしてここにいる?」

副社長が低い声で問うと美女は妖艶な目つきで
「あら、恋人が会いに来るのに理由が必要?私たち婚約してるも同然でしょ」
と言ってまた副社長の首に手を回した。

背筋がゾッとした。

こんなの見たくない。
私はさっと立ち上がって、走って執務室を飛び出した。
何なのこれ。

走り抜ける時に佐伯さんが何かを言った気がする。
それに構わず秘書室の前も全力疾走するとエレベーターを使わず非常階段に向かった。

カツ、カツ、カツ、カツ・・・
勢いよく階段を下る。自分のパンプスの足音で耳が痛い。
5階分程駆け下りて胸が苦しくなり立ち止まった。
ダメ、まだ泣いちゃダメ。
息を整えてまた非常階段をかけ下りて自分のフロアまで戻った。

この先、逃げ込む場所は1つ。
そこなら泣いてもいい。

歯を食いしばり、今朝も入ったばかりの部長室に滑り込んでドアを閉めた。
床に座り込んで膝を抱えて泣いた。
さっき起きた出来事が信じられない。

たった今、抱き締められキスをされた。でもそこは先日副社長が薫と抱き合っていた副社長室。
そして、美女が乱入してきて恋人だか婚約者だとか言ってまたキス。

最低だ。
信じられない。

さっきキスされた唇をごしごしと手で拭って、さっきから点滅をしているスマホを壁に向かって投げ付けた。偶然にも固いドアノブに当たり、破損したのかスマホは点滅をやめた。

そのまま膝を抱えて声を出さないように泣き続けていると、何だか外が騒がしいような気がする。

大方、高橋が『新規契約を取った』とか騒いでいるのだろう。今、私はそんな誰かの手柄なんてどうでもいい。
私は外の騒ぎを無視して泣いた。

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