ヒグラシ
「着いた」
その声にハッと顔を上げると、車の前には石段があった。ちょうど三十段、子どもの頃何度も数えたから間違いない。
「ここって」
「懐かしいだろ? 久しぶりに上まで行こう」
強引に連れて来ちゃったから、と手渡された樹のパーカーは、昔彼がよく着ていたものとそっくりだった。
ほぼ部屋着のような格好にサンダル。すっぴんだし、髪の毛だって朝とかしたきりだ。やはり寒いので借りたパーカーにいそいそと袖を通すと、懐かしいにおいに包まれる。だらりと伸びた袖を捲り上げながら、樹の腕の長さに驚いてしまった。
「暗くなってきたし、足元気を付けろよ」
佳奈はすぐ転ぶからなあ、と笑いながら石段を上がっていった樹を慌てて追いかける。私は足元から視線を外さないまま、声を張り上げた。
「いつの話よ!」
子どもの頃の話を持ち出されても困る。せっかく都合のいいことは全て忘れていたというのに。
転んだ私をいつも起こしてくれたその手が、もっと丸っこくて柔らかかったことまで思い出してしまい、先ほど見た男性らしい手との違いにドキンと胸が鳴った。