イジワルなくちびるから~…甘い嘘。【完】

「来月、社宅希望の新入社員が入ることになっているんだ。個展が終わったら、すぐに引っ越しができるように荷物をまとめておいてくれ」


まるで機械のような感情のない声が幾本もの矢に姿を変え、私の心臓を貫いていく。その痛みは耐え難く、息の根を止められたような気分だった。


「……分かりました」


震える唇から発した言葉は自分でも聞き取れないほど小さくて、きっと、零士先生の耳には届いていなかっただろう。


零士先生が立ち去ると、そのままトイレに駆け込み両手で顔を覆ってしゃがみ込む。が、不思議と涙は出ず、ただ指の間から見える白いタイルを抜け殻状態で眺めていた。


Arielの個展が終われば、もう私に用はないってことか……零士先生がそう考えているなら、私もいつまでも彼のことを引きずっていちゃいけない。別れると決めたのは私なんだから……


そう決意してギャラリーに戻ると飯島さんが心配そうな顔で近付いて来て「大丈夫?」と私の肩を叩く。


「はい……」

「本当は常務のこと、まだ好きなんでしょ?」


その問に答えられずにいたら、飯島さん表情が更に曇り、大きなため息を付く。


「宇都宮さんがトイレに行った後、さっきの文具売り場の娘が言ってたんだけど、ここ数日、社長の機嫌がすこぶる悪いそうよ」

「社長の機嫌が……悪い?」

「そう、あの娘が言うには、常務と矢城さんの関係に気付いたから機嫌が悪いんじゃないかって」


あぁ、そうか。社長が零士先生と薫さんの結婚を大反対したからふたりは別れることになったんだよね。

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