今宵、皇帝陛下と甘く溺れる
 大きくそっぽを向いたカディスの耳が微かに赤く染まっている。アリーナはこのままいじわるを言い続けたいような、堪らない気持ちになってぎゅっと胸を押さえた。

「その。何て言うか……今回だけは、いいってことにします。それにこれは私が自分で買うのでノーカウントってことにします」

「いや、何故そうなる。買ってやるつもりに決まっているだろうが」

「いいんです! 別に、今回は買ってもらうのが嫌とかじゃなくて……このくらいなら貯めてきたお金で買えますし。その、き、気に入ったから、自分で買いたいんです」

 カディスは意味がわからないといった様子で首を傾けたが、アリーナは頑として譲らなかった。

 カディスに買ってもらってしまったら、この首飾りが途方もなく大切なものになってしまう予感がしたのだ。
 大切なものになりすぎてしまうのは困る。別れた後、きっと簡単に忘れられなくなってしまうと、わかっていたから。


「こちら、すぐにお着けになりますか?」

 店員の言葉にほんの少しだけ躊躇って、小さく頷く。

「──はい」



 からんころんと鳴る鈴の音に背中を押されるように店を出て、通りを歩く。

 そっと、無意識に胸元に下がる首飾りに触れた時、周囲が騒がしいことに気がついた。

 まさかカディスの変装がバレたのかと慌てて周囲を見回すが、そのような様子はない。
 通行人の視線が向く先をアリーナも追う。皆が見ていたのは、ある店の店主らしき小太りな女とその前に蹲った少女だった。

 近づくカディスに続くと、はっきりと会話が聞こえてくる。

「ろくにお遣いもできないなんて、やっぱり下町の鼠は馬鹿でトロくてかなわない!」

「す、すみません……っ」

「まったく、この役立たず! あんたを雇ってやっているのは誰だと思ってるんだい!」

「すみませ……」

 女が手を振り上げる。その手に持たれていたのは鞭だった。はっとして少女を見る。蹲る彼女の服は破け、背には幾つもの赤い痕があった。きっと、日常的に打たれているのだろう。

 下町の者は、ここまで出てきてもこうなのか。どこでも、身分の差は埋まらないのか。

 誰も止めようとしない。アリーナも、そっと唇を噛んだ。

 自分たちのような非力な存在が理不尽に立ち向かうには、決死の覚悟がいる。自分自身を守れたのなら上々。誰もがほかの人まで手を回す余裕はない。

 それはアリーナも同じだった。女と少女の姿が、あの時の貴族と彼に重なる。
 助けられない。あの時も何もできなかった自分には、今だって何もできるはずがない。
 動けない。

 鞭が振り下ろされるのがいやにゆっくりと見えた。せめて、目を背けるまいとそちらを見つめ。

 横から人の気配がなくなったことに気づき。

 次の瞬間には鞭が半ばから切れて弾け飛び、ぽとりと虚しく地面に落ちた。
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