今宵、皇帝陛下と甘く溺れる
「帰るんだ……アリーナ」

「──っ」

 うそつき。うそつき、うそつき!
 真っ直ぐ私を見られないくせに。声が震えているくせに。手も、唇も──触れる全てが、震えているくせに!

 見え透いた嘘を吐かなければいけない理由が、アリーナにはわからない。

「全て貴族の戯れだったと忘れてくれ。お前の嫌いな貴族がやったことだ。俺を蔑み……思い出として残さず、忘れてくれ」

 今更そんなことを言うのかと、アリーナはカディスを睨みつけた。何もできないことが情けなくて涙が滲んだ。
 そんなの、最初からわかっている。わかっていてそれでも、自分が必要とされている間は傍にいてあげてもいいと思ったのだ。

 もうそのくらいには、心を許してしまっているのに。貴族だろうが、何だろうが関係ない。この人だから。
 叶わなくても、傍にいられればそれで十分だと。

「陛下! 話が違います! そういうことなら私は黙って見てはいられませんよ!」

 いつものようにどこからか現れたララが割って入ろうと飛び出してくる。しかしカディスに見つめられ、強く唇を噛みながらもぴたりと動きを止めた。

「……陛下、本当に、いいんですか」

「もう決めたことだ。……今更、決意を鈍らせないでくれ」

 カディスの顔がぼやけて見えなくなる。

 いや。どうして。傍にいろって言ったのはあなたのくせに。必要だって言ったのは、あなたのくせに。

「や……カ、ディス……っ」

 必死に名前を呼ぶ。こちらを見たカディスは、今にも泣き出しそうな、そのくせ強い光を湛えた瞳を弧の形に細めた。それはまるで、最後までアリーナを心配させるまいとするようで。

 悲しくて、憎たらしくて、腹が立って。何より、そんな顔をする意味がわからなくて。
 必死に手を伸ばす。やがてぐにゃりと視界が歪んで、黒く閉じた。
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