今宵、皇帝陛下と甘く溺れる
「アリーナ……?」

 不思議そうに名前を呼ばれ、ゆっくりと目を開ける。地面に寝かされていたようで、すっかり柔らかいベッドに慣れてしまったアリーナはぎしぎしと痛む体を起こす。

「本当にアリーナなんだね? アンタ、どうしてこんな所に寝てるんだい?」

 聞き慣れた声。顔を上げると、酷く驚いた表情のルーレンが立っていた。慌てて周囲を確認する。店の前だ。あの、カディスに買われてしまったはずのパン屋の前。いつかのような状況だ。

「……どう、して……」

 ぎゅうと胸元を握り締める。首飾りの小さな石が手に当たった。
 自分は、本当に置いていかれてしまったのか。

「詳しいことはゆっくり話そう。ほら、中へお入り」

 促されるままに扉を開ける。ドアベルが控えめに鳴った。
 机の上に自分とアリーナの分のコップを出して、ルーレンはこちらへずいと身を乗り出す。

「あれから、すぐのことだよ。ほんの1日2日後くらいだったかねえ。息子の家に仮住まいしてたんだけど、皇帝陛下が直々にやってきてさ。あの店はお返しする、あんなことを言ってすまなかった、って。事情は全然飲み込めなかったけど、まあそういうことならってお金を返そうとしたら、それは貴女に差し上げたい、礼だって言うんだよ。……一体何がしたかったのかねぇ」

 アリーナにもわからない。今は何も頭が回らない。
 どうして自分は、こんなところにいるのだろう。

 何か、大切なものがぽっかりと抜け落ちてしまったみたいだった。身体中に穴が空いて、何もかもが通り過ぎていく。ルーレンの話もろくに頭に入ってこない。

 煤けた窓からぼうっと外を眺める。もう朝だ。カディスたちはもう城を出発してしまっただろうか。

「アリーナ、アンタ一体どこへ行ってたんだい? 知り合いに聞いてみたけど見かけないって言うし、心配してたんだよ」

「ああ、ええと……下町じゃなくて、城下町で、下働きをさせてもらってて」

 本当のことを言えるはずもないので、適当に誤魔化す。ルーレンは信じたようで、頻りに頷いた。

「なるほど、それで。いやあ、そんないいところに雇ってもらえたならなんで帰ってきたんだい」

「えーと、なんかやっぱり私みたいなのじゃダメだったみたいで。あはは、クビに、されちゃいました」

 軽い調子で言ったつもりなのに、声が震えた。
 それに気がついたらしく、ルーレンが焦ったように椅子を鳴らして立ち上がり、そわそわと手を動かした。

「ま、私には何があったかわからないけど、さ。元気出しなよ。私はいつでもあんたを雇ってやるから。いつまでもここに居ていいんだよ」

 事情を知らずとも、いたわるようなルーレンの言葉にふと小さく笑う。いつもこの人は、優しい。身寄りがなくても寂しくなかったのは、ルーレンと……そしてあの子のおかげだった。

「ああ、ほら、あんた新聞見るの好きだっただろう? 城下町に居たなら見たかもしれないけどさ。私ゃ、この記事が気に入っててね」

 アリーナを励まそうとしたのか、明るい口調でそう言って手渡してくる。
 正直なところそんな気分ではない。横目でそれを眺めたアリーナは、はっと目を見開いた。

「これ、は……」
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