MAZE ~迷路~
一 プロローグ
 木枯らしの吹きぬける公園のベンチで、智(たくみ)は冷え切ったコーヒーのカップを片手に、ほとんど幹だけになった公孫樹の木を見上げていた。
 木枯らしは智の心の中でも吹き荒れているようで、冷え切った智の心は凍りつき、何かの拍子に砕け散ってしまいそうだった。
「今年の秋は、美波(みなみ)と過ごすはずだったのに・・・・・・。」
 智は、誰に言うでもなく呟くと、冷えきったコーヒーの最後の一口を飲んだ。凍るような感触が喉から胃へと伝わっていった。
 絶望の中に見える光は、いつも美波だった。その美波がいなくなった今、智には希望も光も何も残されていなかった。
「美波・・・・・・。」
 もう一度その名を呼ぶと、智はゆっくりと立ち上がりベンチ脇のゴミ箱にコーヒーのカップを捨てた。
 それを待っていたかのように、一人の青年が智に歩み寄ってきた。
「敦(おさむ)・・・・・・。」
 智は言うと、凍りついたように敦の事を見つめた。
「なんで側にいてやらないんだよ。お前は・・・・・・。」
 そこまで言うと、敦は一度、言葉を切った。
「お前は、本当に、本当に美波が、美波がやったと思っているのか?」
 敦は必死に感情を抑えながら、智に問いかけた。
「美波が、美波が俺を必要としていない以上、美波の中に、俺のいる場所はもうないんだよ。」
 智は言うと、敦に背を向けて歩き出そうとした。
 その智の手を敦はすばやく掴んだ。
「待てよ。これだけは言っておく。お前が美波の側を離れるなら、俺が美波を支えていく。」
 腕がちぎれそうなほどきつく握りしめる敦に、智は静かに答えた。
「今の美波は、誰も必要としていない。俺も、それから、お前の事も。」
「勝手にしろ。俺は、たとえ美波が殺人犯でも、凶悪犯でも、そばにいてやりたいんだ。」
 敦の気持ちは智にも痛いほどわかった。事実、美波から完璧な拒絶を受けるまで、智の気持ちに変わりはなかった。しかし、その智の思いさえも、美波の完璧なまでの拒絶には耐えうることが出来なかった。
「美波は・・・・・・。」
 そこまで言ったとたん、ウェディングドレス姿の美波が智の脳裏を横切った。
「俺の気持ちは変わらない。でも、駄目なんだよ。お前にもそのうちわかるさ。」
 智は言うと、一気に敦の手を振り払った。
「そうだ。あれ以来、初めて美波が口をきいたよ。さとるに逢いたいって。」
 智が言うと、敦の顔は見た目に分かるほどに引きつった。
「まさか、美波がそう言ったのか? 嘘だろ?」
 敦の動揺が、智には滑稽に見えた。
「だから言っただろ。美波は、俺たちを必要としていないって。」
 智は言うと、溜息をついた。
「じゃあな。」
 石のように動けずにいる敦にそれだけ言うと、智は背を向けて歩き始めた。
「・・・・・・あいつは、哲は死んだんだよ。」
 敦は智の背中に向かって言った。
 智は一瞬だけ立ち止まったが、そのまま敦に背を向けて歩き去っていった。

(・・・・・・・・おかしい。美波が、美波が哲(さとる)に、夛々木(たたき)君に会いたがるはずがない・・・・・・・・)

 敦は頭がおかしくなりそうな気がして、両手で頭を抱え込んだ。

(・・・・・・・・おかしい。絶対、何かがおかしい・・・・・・・・)

 敦はそう考えながら、智とは別の方向に向かって歩き出した。

☆☆☆

 家に帰った智は、コートを脱ぎ捨てると無造作にベッドに横になった。
 『哲に会いたいの』美波の声が頭にエコーするような気がして、智はステレオのスイッチをオンにした。
 血の気の引いた美波の唇が、土気色した死人のような顔の美波が、自分でも敦でもない、別の男の名前を口にしたことに、智は激しい怒りと嫉妬を感じていた。
 この半月というもの、病室の美波は、ずっとだんまりを続けていた。何を聞いても、何を話しても、体の事、食事の事、延期になってしまっている式のこと、何を尋ねても、美波は一言も返事をしなかった。
 『なんであんな事を?』と、はっきりと口に出して訊いてしまいたい衝動に駆られながらも、必死に智が言葉を飲み込みつづけたのは、美波を愛しているからで、美波も自分を愛してくれていると信じていたからだった。どんなに美波が拒絶しても、援助を拒否しつづけても、智は美波を支えていく自信があった。あの瞬間、泣きながら美波が『哲に会いたいの』と、言うまでは。自分でもなく、敦でもなく、哲に会いたいと、美波ははっきりといった。
「俺は、美波にとってなんだったんだよ・・・・・・・・。」
 智は呟くと、頭の中に響きつづける美波の言葉から逃げるために、頭から布団をかぶった。
『・・・・・・あいつは、哲は死んだんだよ。』
 次の瞬間、今度は敦の言葉が頭に木霊した。

(・・・・・・・・おかしい。美波が他の男に逢いたいなんて・・・・・・・・)

 嫉妬と怒りが渦巻く中、智は頭から布団をかぶりつづけた。

☆☆☆

 智と別れた敦は、美波の家へと足を向けた。
 世間を騒がすほどの大事件にならずに済んだおかげで、最初は美波の家に張り付いていたマスコミの連中も、既に姿が見えなくなっていた。
 敦は表の門を開けると、いつものように勝手口に回りこみ、合鍵でドアーを開けた。
「おばさん、入るよ。」
 とりあえず声をかけると、敦は家の中に入りしっかりと鍵をかけた。
「敦ちゃん、いらっしゃい。」
 この一月ほどで、げっそりとやせ細った叔母の有紀子(ゆきこ)は、帰ってきたばかりのようだった。
「おばさん、聞きたいことがあって・・・・・・。」
 敦が言うと、有紀子はダイニングキッチンの椅子を指差した。
「お茶をいれるわ。」
 そう言う有紀子の手元は、まるで主婦暦ゼロのOLのように不案内に見えた。
「おばさん、俺煎れるよ。」
 敦は言うと、有紀子を椅子に座らせた。
「驚かないで聞いて欲しいんだけど。」
 敦は言いながら、お茶を煎れ始めた。
「今日、智から聞いたんだけど、美波、はじめて口を開いたらしい。」
 敦の言葉に、有紀子は飛び上がりそうに驚いていた。
「美波、やっと話せるようになったの?」
 事件直後に美波を診察した医師は、ショック状態で話が出来なくなっているだけだと家族に話していた。
「それが、変な話なんだけどさ、美波、誰に逢いたいって言ったと思う?」
 敦の言葉に、有紀子はすぐに『絢子(あやこ)ちゃん』と、答えた。
「俺もさ、それなら驚かなかったんだ。」
 敦は言うと、有紀子に湯飲みを渡して自分も椅子に腰掛けた。
「美波、絢子ちゃんに逢いたいってずっと言ってたからさ、驚かないんだけど。哲に逢いたいって、智に言ったらしいんだ。」
 湯のみが有紀子の手を滑り、砕け散った。
「そんな馬鹿な事・・・・・・。」
 見る間に蒼ざめていく有紀子の手を敦はしっかりと握った。
「おばさん、明日、美波に逢いに行ってくる。智は誤解しているみたいで、詳しい事が分からないとこのままじゃ・・・・・・。」
 そういう敦の手を有紀子がしっかりと握り返した。
「敦ちゃん、指紋が見つかってないんですって。」
 有紀子の言葉が理解できずに、敦は砕けた湯飲みに目をやった。
「美波の指紋、建物のどこからも出てこないって。コンセントにも、ドアーのノブにも。どこにも出てこないって。今の状態では、事故の時になぜ美波があの場所にいたのか、証明する事が出来るものは何もないって。それで美波、病院に移されたの。」
「おばさん、どういう意味か良くわからないよ。もっと詳しく・・・・・・。」
 敦が言うと、有紀子は寂しげな目をして敦を見つめた。
「誰も見てないのよ、美波があの部屋に入ったのを。」
「でも、あの場所に倒れてたから、美波は疑われて・・・・・・。」
 敦の言葉に、有紀子は静かに頷いた。
「このままなら、病院から出られなくても、美波が起訴される事はないわ。」
 有紀子の言葉に、敦は言葉を飲み込んだ。
「逢いに行っても良いよね。おばさん。俺、美波とは血がつながってないけど、従兄妹として、逢いに行っても良いよね。父さんが、おばさんに許可を取ってからじゃないと駄目だって言うんだ。俺は、美波が智と婚約しても、ずっと美波の事を大切に思ってきたし、今でも、美波が俺で良いって言ってくれるんなら、一生これからもずっと美波と一緒にいたいと思ってる。逢いに行って良いよね。」
 有紀子には、幼い敦の顔が今の敦の顔にダブって見える気がした。まだ、美波が生まれて間もない頃、事故で夫を無くした有紀子の姉、美夜子(みやこ)が再婚した相手、椋木(くらき)宣之(のりゆき)の連れ子が敦だった。美夜子に手を引かれ、初めて会った敦は男の子とは思えないほど可愛らしかったのを有紀子は今でも覚えていた。
 物心つかない頃から従兄妹として育った敦が、実は血のつながらない他人だという事を思春期の美波に説明するかどうかで、何度も美夜子と話をした事も、昨日の事のように覚えている。
 やがて、美波と結婚したいと敦が言い出し、一時は宣之と有紀子の夫、達海(さとみ)が険悪な仲になった事もあったが、美波が敦の親友、智と結婚すると言い出したことで、いつの間にか全てが丸く収まり、全てが順調に進んでいた。
「敦ちゃん、美波を追い詰めないでね。それだけ、約束して。」
 有紀子の言葉に、敦はゆっくりとかみ締めるように頷いた。
「良いわ。逢ってらっしゃい。でも、その前に、おばさんの昔話を聞いて欲しいの。」
 有紀子が言うと、敦はゆっくりと椅子から立ち上がった。
「ゆっくり話を聞きたいから、先に片付けるよ。」
 敦は言うと、腰が抜けたように椅子に座りつづける有紀子の代わりに、砕けた湯飲みを片付け、もう一杯お茶を煎れた。


< 1 / 45 >

この作品をシェア

pagetop